ゴーン会長の逮捕で大騒ぎになっている日産だが、私が経験したトヨタと日産について書く
昨年に書いたが、私は港湾局の財産係長の時、トヨタと直接に交渉したことがある。
1960年代後半に横浜市は根岸湾を順次埋立てて企業に売却して工場を誘致した。イ地区から始まり、ロ地区ときて、その最後が新杉田駅の先になるハ地区だった。これによって、根岸湾は根岸から杉田まで、ほぼすべての海岸線が埋立てられたのである。そこには、横浜市が経済局南部市場を作った他、丸善石油などにも売却したが、その一つに京浜倉庫が取得して作った京浜埠頭があった。勿論、埋め立て地の売却については、公募があり、応募した各企業を審査して売却先を決定した。その経緯についてもいろいろあり、その決定の稟議書類も見たことがあり、市会議員の関与もあったようだが、それについては地方公務員法の守秘義務があるので書けない。いずれにしても、京浜倉庫は、港運・倉庫業からの脱却を考えて、自社による民間ふ頭運営に乗り出したのである。理由は、前に書いた在日としての壁だろう。そして彼らは、船会社も買収した。香港の船会社・エバレット海運で、買収額は100億円以上だったと言われている。だが、港湾事業で民間の埠頭運営はなかなか難しいものであり、横浜では本牧関連産業地区にある国際埠頭だけである。ここは三菱商事を顧客としており、米や珪砂など特定の品目を扱って堅実な経営をしているらしい。米は食糧会社に、珪砂はガラス会社に卸すのだろう、いずれにしても安定的な埠頭業である。一方、京浜倉庫のエバレットを使っての埠頭事業はあまりうまくいかなかったようだ。そして1980年代の後半のある日、ケイヒンは「京浜埠頭を買ってくれ」と横浜市港湾局に申し入れてきたが、その担当係長は私だった。港湾局としても「渡りに船」の良い話と同意し、すぐに交渉が始まった。ふ頭としての設備は問題はなく、要は売買価格だった。財政局に依頼して市債を組んでもらうと共に、財産評価審議会にも掛けて鑑定評価をしてもらい、90億円という価格を出し、京浜倉庫に伝えた。ところがしばらくして、ある所から京浜倉庫は、トヨタと交渉しているとの噂が私にも入ってきた。すぐに上司にも伝え、局長の前でも話した。だが、当時のK局長は「価格つり上げ策だろう」と相手にせず楽観していた。実は、この噂を聞いたのは、私が鑑定評価のため財政局の担当者を連れて現地に行ったより少し前で、財政局の職員に対してはあまり気分がよくなかったのだが。そして、ついに京浜倉庫はトヨタ自動車に売ったことが明らかになった。港湾局長への面会で、京浜倉庫の大津社長は土下座して謝ったとのことだが、私は同席していない。その後、京浜倉庫の職員は担当である我々に一度も来なかった。だが、トヨタ自動車の連中は偉かった。その後何度も港湾局に来て事情を説明したのだから。その「三河武士」と言われえる真面目さにはむしろ感動した。京浜倉庫がトヨタに売った理由は、価格ではなく、売却後も自動車輸出の仕事をもらえるからだとのことだった。しかし、現在ではトヨタ埠頭での業務は、藤木系の企業がやっていて京浜倉庫の取り扱いではないようだ。その翌年の人事異動で局長は異動された。部下の進言を信じず、他人を安易に信じると自分が馬鹿を見るという教訓である。翌年の予算市会では共産党の議員に呼ばれた。債務負担行為を削除していたからで、「これはなんだ」と聞かれたが、経緯を説明すると簡単に納得してもらった。共産党は公共事業に反対だったので、大型事業がなくなってよかったと誤解したのだろうと思う。
だが、その1年後、私と財政局の担当者は自治省に呼ばれた。「この時の起債はどうしたのか」というのだ。買収ができなかったので、90億円起債の取り消しを翌年にしたのだが、どうした訳か自治省の担当者は、90億を900億円と読み違えていて、「900億円なら大規模な港湾施設を作る計画がいきなりなくなったのはどうしてなのか」と単純に数字の見間違から我々をわざわざ呼び出したのである。
このように私の経験では、このようにトヨタは非常に真面目で、紳士的な態度だった。
対して日産は、私は直接対応していないが、隣の係で本牧の日産ふ頭(自動車輸出で必ず映像資料として出てくるふ頭)の使用について、相談にきていた。多分、自分たちだけではなく、他の者にも使わせようとしていたのだと思う。その時に港湾局に来ていた日産の社員は、結構高価な背広、ネクタイ、時計などを身に着けていた。そんなことはどうでもよいのだが、「全体に日産の社員は個人で動いているな」と言う感じを持った。「個人プレーではなく、明らかに組織として動いていると想像されたトヨタとは違うな」と思ったのである。
この素人の感想は、知人のいすず自動車にいた人に聞くと、「その通り」とのことで、私の感想は当たっていたことになるのは驚いた。
今回のゴーン氏の問題が本当だとすれば、それはもともと日産が持っていた個人重視、よく言えば自由な社風にあったのではないかと私は思う。
歴史的に日産は、戦前に日本国内の工場をすべて満州に移すなど非常に大胆な営業方針をとった。
それは、当時の革新官僚等の方針に従ったものと思っていたが、鮎川義介の伝記を読むとそうではなかったようだ。また、在米経験の長かった鮎川は、日米戦争には大反対だったようで、そこには経営者の見識を感じる。戦後は、「中小企業の育成が大事だ」とのことで政治組織の中政連も作るが、これは息子の選挙違反で大事件になる。
いずれにしても、常に自由滑沢、革新的な営業をとる日産にとって、今から20年も前に外国人社長を迎えるなどは他社には考えもつかなかったことである。
問題は、それによってV字回復したのちも、そのままでずっといたことだろう。
できるならば、収益が改善した時に、ルノーが保有する日産の株を買い戻すなどして、自由度を上げておくことだったと私は思う。