大久保英太郎さんのことでもう一つ知っている話。
彼は、横浜市長になりたかった。
その原因は、飛鳥田一雄横浜市長のリップサービスにあった。
大久保さんは、私が市役所に入る前の昭和40年代のことだが、奥さんを交通事故でなくされた。
そして、その後添えを世話したのは、昨日も書いた自民党団長の横山健一さんだった。
なぜ横山さんと大久保さんが仲が良かったかといえば、それは議員野球団だった。
当時、各市議会には市会議員の野球チームがあり、神奈川県下、関東、全国などの野球大会があり、それを目指して日ごろ先生たちは練習に励んでいた。
市会事務局の若手職員は、その練習相手をさせられた。
今考えればとんでもないことだが、当時は重要な仕事として、平日昼間に議員の野球の練習の相手をさせられたのである。
その横浜市会議員野球団の監督は自民党団長の横山さんで、キャプテンが社会党団長の大久保さんだった。
その辺から密接な付き合いが出来、飛鳥田市政を支える右と左の両翼のようになったのだと思う。
その横山さんから、大久保さんは二度目の奥さんを紹介された。
その女性は神奈川台町のお座敷に出ていた人との噂で、何度か議長室にも来たが、和服で悠然とタバコを吸っていたので、その噂は多分本当だろう。
その方との結婚式で、来賓として出席した飛鳥田横浜市長が、「私の後任は大久保さんだ」と結婚式の祝辞で大久保さんを持ち上げたのだそうだ。
飛鳥田さんの本心がどうだったかは、知らないが、結構罪な言葉である。
そして、大久保さんが、その言葉を長く信じていたことは事実である。
大久保さんは、飛鳥田さんが市長のまま社会党の委員長になり、就任1年後には横浜市長を辞めたので、新たに横浜市長選挙になった。
飛鳥田市政の下で冷飯を食っていた民社党は、このときとばかりすばやく対応し、自治省事務次官を務め、当時は横浜駅東口開発公社にいた細郷道一氏を東大での同級生で民社党議員だった河村勝氏が市長候補に担ぎ出した。
そして、自民党もこれに同調し、最終的には社会党も細郷氏に乗らざるを得なくなる。
そのとき、「飛鳥田は、なぜ俺を後任として指名してくれなかったのだ。指名してくれてれば社会党単独でも選挙に勝てたのに」と大久保さんはずっと言っていた。
それを聞くたびに、私は心の中で「役者が違うんじゃないの」と思っていたのであるが。
まあ、この際横浜市政に名を残す偉大な大久保英太郎さんのご冥福をお祈りしておこう。