『シラノ・ド・ベルジュラック』

先週に続き、BeSeTo演劇祭、今週は鈴木忠志演出の『シラノ・ド・ベルジュラック』
鈴木は、本来演出家ではなく、スズキ・メソッドに代表されるように俳優訓練家であると言うのが私の見方である。
そこでは、劇の物語性やテーマは問題ではなく、役者の演技こそが第一だとされる。
鈴木忠志曰く
「演劇とは役者を見せるものである」からだ。
そして、このテーゼは、先日亡くなったつかこうへいにも受け継がれているが、歌舞伎をはじめ日本の伝統演劇の手法でもある。
野球で言えば、鈴木忠志は打撃コーチや投手コーチであり、どう良いフォームでやったが問題であり、試合の勝ち負けは、どうでも良いことになる。
果たしてその結果が面白いだろうか、と言えば勿論つまらない。
だから、鈴木の芝居は、最後は批評、文明論になってしまう。
それを面白いと思うのは、芝居スレた玄人だけであると私は思うのだが。

さて、この『シラノ』は、壮士芝居に仕立てられてあり、音楽はオペラの『椿姫』が使われている。
理由は『シラノ』と『椿姫』が、近代以後日本の大衆に受けてきたからだそうだが、美女と醜男の『シラノ』は、阪東妻三郎の名演『無法松の一生』以降、井上靖の『風林火山』での山本勘助の由布姫への恋まで多数あるが、『椿姫』はそうだろうか。
『婦系図』はそうだともいえるが。
例によって、スズキ・メソッドの演技が展開されるが、結局面白かったのは、シラノとクリスチャンがロクサーヌの家の下で恋情を述べるところと、最後ロクサーヌがすべてはシラノの作文だったと知るところのみとは、やはり原作者ロスタンの力と言うべきか。

最後、番傘をさしたシラノが、雪の中を去って行くが、ここは『椿姫』ではなく、『唐獅子牡丹』を流してほしかったところである。
そうすれば、「日本の現代劇の殿堂での大衆劇」という鈴木忠志の企みも成就されたはずなのだから。

かつて帝劇で『悲劇 アトレウス家の』というギリシャ悲劇を「キャバレーでの能」としてやって、鳳蘭をはじめ宝塚ファンを唖然とさせ、東宝から愛想つかされたのだから。
新国立劇場

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