パシフィコ横浜のネーミング

APECも横浜ビジョンを出して無事終了したようだ。
私が、1988年に国際会議場会社に派遣されて、最初にやった重要な仕事の一つが、会社の英文名、愛称、マークを作る、C・I、「コーポレート・アイデンティティ」活動だった。

当時も現在も、パシフィコ横浜の正式な社名は、株式会社横浜国際平和会議場である。
この「国際平和」と言うのは、当時の市長細郷道一氏の強い意思によるものである。
1988年の初頭、会社の登記をするため、横浜市の都市計画局長、担当部長らが市長に説明に行った。そのときの名称は、株式会社横浜国際会議場だった。それに対して細郷市長は、
「横浜国際平和会議場にしなさい」と言った。
そして、訝る局長以下に
「国際平和と言うのは、特定の政治勢力が独占するものではなく、人類共通で究極の目標なのだ。だから国際平和を入れなさい」と強く断言したそうだ。
さすが、女性スキャンダル裁判に勝訴した程度で、自分こそは正義と騒いでいるチンピラとはレベルが違う。

だが、実際にこの「国際平和会議場」は、名前として硬いし、電話でも言いにくいので、すぐに愛称、英文名を作ることになった。
一応、専門会社に委託したが、ほとんど担当の私が全部やった。
このとき委託会社側の担当は、最近「なんとか力」等の本を出しているコンサルタントの野口吉昭氏である。
彼らは、高木文雄社長以下に全職員にまでに(と言っても20人くらいだった)ヒアリングを行い、会社の理念等から導き出して、1,000くらいの候補案を持って来た。
そこから、様々にフィルタリングを行い、最終20案を私が選んで、彼らに送った。
そのとき私は、P・C・C,パシフィック・コンベンション・センターと言うのを入れておいた。
それを彼らは、パシフィック・コンベンション・プラザ・ヨコハマに変えてきて、これが社内でも正式に承認され、さらに短くつめてパシフィコ横浜にした。
太平洋と平和に共通のパシフィックをキー・ワードとしたものである。

大航海時代、ポルトガルのマゼランは、世界一周航海で南米の最先端の岬を抜け、大きな海洋に出た。すると、そこは風が荒れ狂う海峡から一転して、平和で平穏な海だった。
そこで、彼は平穏、パシフィック・オーシャンと名づけた(ポルトガル語では、マール・ド・パシフィカだが)。

その国際平和を祈念するパシフィコ横浜で、APECが行われたのは、まさにパシフィコ横浜の理念が実現されたもので、まことに喜ばしい。
商業施設など周囲への影響も少なからずあったようだが、逆に言えば、それだけみなとみらい地区、横浜全体へのパシフィコ横浜の影響力、存在感の大きさを示すものである。
今やパシフィコ横浜なしに、みなとみらいも、横浜もありえない。
ここまでになったことを関係者の一人として、大いに喜びたい。

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