『いとま申して』 北村 薫(文春文庫)

これはかなり珍しい種類の本である。作家北村薫氏の父親宮本演彦(みやもとのぶひこ)の若き日の日記を基にした評伝であり、昭和初期の横浜の庶民の生活や考え方がよくわかる本だ。評伝とはいっても、有名人や作家ではなく、、無名のまま亡くなられた方の評伝だからだ。

庶民とは言っても、北村氏の宮本家は、横浜の保土ヶ谷の眼科医の家で、父親自身が神中(神奈川中学、現希望が丘高校)から慶応大学文学部に進学しているのだから、かなり上層の家だった。

宮本演彦氏は 明治42年生まれ、私の父は43年生まれで、ほぼ同じ。

兄弟も宮本家は4人、私の父は5人兄弟と同様だった。ただ、父は長男(演彦氏は次男)で、下に妹・弟がいたので、大学に行きたかったらしいが断念し、学費の掛からない師範学校に行き、小学校の教師になった。

父の従兄弟には、戦後に文化功労章を受章した、法制史の石井良助先生もおられ、一緒に勉強した時期もあったとのことなので、向学心は強かったのだと思う。

表題の「いとま申して」は、古語的な表現で、演彦氏の「辞世の原稿用紙」に書かれていた「いとま申して、さらば行く」からである。

演彦は、童話が好きで自分でも書き、中学時代から童話雑誌『童話』に投稿していた。仲間には、金子みすゞ、さらに淀川長治も関係していた時があったようだ。この雑誌についても、戦後『新諸国物語』で大ヒットした北村寿夫が関係していたが、昭和初期のプロレタリア文学全盛時代には急に左傾するなど非常に面白い挿話がある。北村氏は、その後NHKに入ったようだが。

在野の歌舞伎評論家で、国立劇場制作部長となるが急死された加賀山直三氏と慶応大学で知り合うなど、いろいろと興味深い話がある。

だが、一番残るのは、昭和3年の昭和天皇の京都で行われる大嘗祭に行く列車の往復の際の横浜の人々である。

東京から京都に行くお召列車を多くの横浜の庶民は、線路の脇に立って迎え、万歳三唱する。だが、宮本家の人々は避ける。理由は母方の祖父がこの秋に亡くなったからで、喪に服している家の者は列席しないのである。

その祖父の鈴木家は、港北の大地主で、当時の結婚は家と家のものであった。私が行政の秘書として仕えた相川藤兵衛横浜市会議長の奥さんも、港北の飯田家の出で、飯田家は何人もの議員を出した名家である。つまり、金沢の相川家と港北の飯田家の婚姻なのだった。

まるで、自分の家が天皇家と親戚のような感覚で、これには驚く。

こうした意識は、戦後の日本ではにはまったく失われたもので、たぶん今ではタイやブータンの人々の王室への思いくらいしかないものだと私は思う。

最後、演彦氏は、国文学者折口信夫先生と出会って終わる。折口先生の影響で、演彦氏は沖縄に行き、卒業後は中学の国語の教師として一生を終わられることになるのだが。

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