勝新太郎の自在さをなぜ生かせなかったのか

先週の土曜日は、雨で寒くて外に出る気がせず、家で勝新の『兵隊やくざ』を見ていた。
多分、40年ぶりくらいに見たが、やはり面白く、勝新太郎の肉体の弾け方がすごい。
アクション・シーンでのそれは、まるでジャズのように運動が飛躍し、増大していくのである。
まさに天性の役者、アドリブ・アーチストである。

春日太一の『天才 勝新太郎』(文春新書)には、大映が倒産して以後、彼が勝プロダクションの映画やテレビで苦闘して行く経緯が詳述されている。
そこで窺える勝新は、つねに新しい、その場で浮かんだ即興的なアイディアに唯一のリアリティを感じ、それのために製作スケジュール等を無視し、結果的に赤字を抱えてしまうものとなっている。
だが、この気持ちは実によくわかる気がする。
演技の中で、その場に生まれ出てきたような即興的な感興を得て、芝居をしている時の嬉しさ、感動は多分なにものにも代えがたいものに違いない。それは、かの野田秀樹の芝居の高揚するときの時めきを知っている人なら、容易に分かるに違いない。
だが、それを映画の中で、あらかじめ用意し、あるいは撮影のさなかで行うことは、極めて難しいことである。

勝新はしばしば言っていたそうだが、その「神が降りてくる瞬間」など、そうやすやすと得られるはずもないのだから。
だが、野田秀樹の芝居に見られるように、演劇では可能だし、少なくとも日々、そうした感動を得るように演じ、見せることはできるはずだ、少なくとも勝新太郎くらいの役者になれば。
だから、私が考える勝新の上手な使い方、出演法は、こうだ。

映画やテレビの製作をメインにし、そこでは勝のワガママは極力抑えてスケジュールどおりの作品を作り、経済的基盤とする。
それだけやっていると、勝の創造意欲がなくなるので、年に数ヶ月舞台の仕事を入れ、そこでは勝の創造的演技術で勝の意欲を満たさせる。
芝居なら、毎日違った心持ちで芝居に望むことができ、役者は日々新鮮な気分で演技せざるを得ないからである。
こう考えると、結局勝新太郎は、本来舞台の役者だったということになる。
元々、彼は歌舞伎の長唄の家の生まれ、御簾内の人だったのだから。

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