高円寺に行き、平田オリザ演出の『月の岬』を見た。
総武線が事故で少し遅れているとのことで、開演が15分遅れたのだが、その間もじっと場内の左右に立っていた若い男女を見ていて、平田オリザと青年団を、私が昔から嫌いな理由がよく分かった。
この善良そうで、頭も多分そう悪くなく、真面目な若者たちは、逆に非常に騙されやすいタイプの人たちなのだ。
ここには、芝居をやる人間によくある、一山当ててやろうとか、有名になってやろうとか、あるいは女をものにしてやろうといった山気のある人間はいないように見える、少なくとも、平田オリザを除いては。
あるいは、自身の心に何かの問題を抱えていて、それをなんとかして欲しいと思っている若者のようだ。
要は、物事に騙されやすいと言えば簡単だが、信じ易い「純粋な」連中が集まっているのである。
こう書くとまるでオウム真理教に従った連中のようではないか、と思われるだろうが、まさにその通りである。
この体質は、かつて過激派の一部にいた革マル派にも共通する雰囲気でもある。
『月の岬』という松田正隆・作、平田オリザ演出の劇は、これほど思わせぶりだけで中身のない、不愉快な芝居もなかった。
坐・高円寺
コメント
Unknown
>これほど思わせぶりだけで中身のない、不愉快な芝居もなかった
オリザファンです。
オリザさんの芝居は「世界の切り取り方」に関するもので、イデオロギーや主義主張に関するものではありません。
(「世界の見せ方」とも少しちがうと思います)
「中身がない」のではなく、「視点」を見るのがポイントなのでは。
ホンを書いた「マレビトの会」の松田さんの舞台は見ていないので、この作品のホンに関しては何とも言えませんが。
青年団がブレイクするまで、「静かな演劇」の意図や鑑賞のポイントがまったく理解されていなかったため、積極的にワークショップを開催していた、というのは割と知られた話です。
オリザさんに山っ気が、というのは全く外れてはいないでしょうね。
これまた有名な話ですが、彼の実家は小劇場を経営していて巨額の借金がありました。
その返済や経営の正常化のためには、山っ気を出さざるを得なかったのではないでしょうか。
オリザさんは演劇の世界に居所を残しながら、政治の世界にも脚を突っ込んでいる希有な人物です。「山っ気」はプラスの方向に働いていると思いますが、いかがでしょうか?
面白ければ良いのですが
壇原さんが、平田オリザを好きとは意外です。
私は、ああいうインチキ芝居が一番嫌いです。
「切り取り方」って、要はカッコだけではありませんか。
平田家にどんな事情があろうが、他人から理解されず苦労していようが、要は結果として芝居が良ければよいのです。
1993年の『ハトヲ飼ウ』以来結構見ていますが、一度も面白かったことがありません。
あえて言うなら、純情な青少年を騙している点では、宗教団体のようにさえ見えますが、いかがでしょうか。
検索からきました
ああ…やはり平田オリザってそういうやつだったのですか。
あるブログでインプロという即興芝居の事を平田に質問した人がいて「インプロは役者が判断できないからダメな手法」とまるっきり理解していない的外れな答えが返ってきたと読んだことがあります。
その分じゃ平田の演劇以外の肩書き等を照らし合わせたら演劇を踏み台にした「単なる権力好き、権力掌握」をしたいだけもしれませんね。イタっ…いやつぅ~(笑)!
権力好きでもよいのですが
私としては、結果として芝居が良ければいいのです。
その意味では、少々下品ですが、見る者に奉仕する劇団新感線などの方がはるかに好きです。
インチキ?
「S高原から」のほか2、3本しか見ていませんが、非常に巧いと思いますけどね。
ワークショップも受けてますよ、単発ですが。
>「切り取り方」って、要はカッコだけではありませんか。
カッコではなく、「視点の置き方」なんですけどね。
「S高原から」にはかなり感動しましたが、逆にどの辺りが「カッコだけ」で空虚だったのでしょうか?
何を以て「インチキ」と言っているのかが分からないのですが。
「どこが?」と言われると思いますが、僕の本はオリザさんの影響をかなり受けています。
彼の書いた「演劇入門」で一皮むけた、と言っても過言ではありませんね。
>「インプロは役者が判断できないからダメな手法」
現代口語演劇の演技はすごい細かい積み重ねで出来ているので、インプロのような「勢い芝居」とは相性が悪いでしょうね。
たとえば「声を掛けられて振り向く」という芝居があるとして、「どのタイミングで振り向くか」ということを役の生理と役者の生理を関連づけて決定します。
追記:宗教団体のように
>あえて言うなら、純情な青少年を騙している点では、宗教団体のようにさえ見えますが、いかがでしょうか。
青年団出身者で賞を取るなど成功している人が多いことを、どう評価しますか?
「評価する奴らはバカだ。審査員もだまされている」ということでしょうか?
言い古された言葉ですが、ファンと信者は似ています。
しかし劇団員と主催者/演出家は信者ではなく、家族だと思います。
追追記
『パーマ屋スミレ』の批評を読みましたが、どうも指田さんは「事件がないと演劇ではない」「山場あってのドラマ」だと考えているようですね。
たしかにそういう「ドラマ信者」にとって、現代口語演劇は「退屈劇」以外の何物でもないでしょう。
つまり「何も起きない日常」は「取り上げるのに値しない死んだ時間」であり、さらにきつい言い方をすれば「実人生の大部分は生きるのに値しない死んだ時間の連続」ということになるのでしょうね。
「つまらない時間を生きているからこそ、観客は血湧き肉躍る時間を疑似体験するために芝居や映画を鑑賞するのだ」といったところでしょうか?
>平田オリザの芝居は、1993年の『ハトヲ飼ウ』から何度か見ているが、今回で、彼の本質がよく分かった。
作り手の本質がもっともよく見えるのは、音楽の場合はデビュー作、演劇の場合はデビューからの5年間くらい作品だと思います。
現在のオリザさんは双六で言う「上がり」の状態なので、(僕はファンですけど)いま見ても仕方ないですよ。
スタイルが出来上がっているので、新境地もなにもないでしょうし。
新作を論じて「本質が見えた」は違うんじゃないでしょうか?
それから「芝居はライブ」というのは、間違っています。
それって「演技が安定していない」=「不安定な演技しかしない/出来ない役者こそ素晴らしい」ということですよね?
それでは単なる素人です。
良い役者はそれこそロボットのように、毎回同じタイミングで同じ質感の演技をします。
ここでその日の体調や気分に合わせて演技をしていたら、演出家の面目がつぶれます。
(毎回、演出が違ってしまうということになるので)
もちろん寺山のように前衛の世界で素人を好んで使っていた人には、別の理屈があります。
しかしここでは扱いません。
(気象や機材のトラブルのような不可避の事態とは別に、)役者が気まぐれを起こして、それにつきあうのがライブ?
制度としてインプロを取り入れた音楽や舞台はあります。
(ジャズのソロパートのインプロなど)
しかし、それとこれとは別の話です。
気分によって演技を変えて良いのは、たとえば客いじりとか、大道芸とか、そういう類のパフォーマンスでしょう。
マイケル・ジャクソンは毎回コンサートでぴったり同じ時間に開演し、同じ時間に終演したそうです。
彼のことをどう思いますか?
追記)
チェルフィッチュは僕も苦手です。
やっていることは新しいと思いますが、そして何が評価されているのかも分かりますが、退屈で最後まで観られません。
Unknown
恵まれた環境で甘えた生温い人生のくせに、一人前に人生を騙る、彼の以前のコラムを見て虫唾が走りました。
こんな人間の関係するもの自体観たくありませんね。
気持ちが悪いですよ、この人は。