吉田喜重の傑作『戒厳令』の後タイトルには、製作として3人の名が載っている、岡田茉莉子、葛井欣四郎、そして上野昂志。
岡田は、吉田喜重の会社・現代映画社を代表し、葛井は日本ATGであるが、上野昂志は言うまでもなく映画評論家の上野昂志である。
彼が、製作を担当した内幕は、彼の本『映画・反英雄たちの夢』に書かれている。
製作を担当した理由は、彼が、この映画等の撮影を担当した長谷川元吉の高校時代からの親しい友人であったことで、彼を通じて吉田から依頼があったのだという。
吉田喜重は、上野が映画芸能界にまったくの素人であったことを十分承知で、それをむしろ上手く利用しながら製作を進めて行く。
当初、北一輝役は、滝沢修だったそうだが、滝沢も民芸も、北一輝役というのは、左翼的立場から見て抵抗があったらしく駄目になる。
次に上がった森雅之は適役だが、健康問題でこれもダメになり、最後に候補になったのが、三国連太郎だった。
だが、ギャラが大問題になる。
吉田は、滝沢なら80万なので、三国は100万と踏んでいたが、上野がマネージャーに交渉すると、
「いくらATGでも100万では、150万は欲しい」といい長く交渉し三国側は「最低でも140万」というが、結局100万で決まる。
内藤武敏も法外な値段で押切り、さらに文学座、くるみ座の連中等は「まとめていくら」という、ほとんどアルバイト的な値段のギャラになる。
これを見ると、松竹における製作者と言うのは、ほとんど監督の言うなり、傀儡だったことがよくわかる。
松竹、特に蒲田時代は、映画製作の金は直接監督に渡し、監督が総てを仕切るものだったそうだが、その精神は戦後の大船でも同じだったようだ。
さらに、旧大映の映像京都の連中とのやり取りが面白い。
彼らは金の問題ではなく、作品の質を問題にしていて、
「大島渚とは『儀式』でやって分かった。実相寺は、もう分かったし、あの程度だろう。だが、吉田喜重とはやったことがないので、やってみたい」
上野は、これは彼らのプロ意識だと言っているが、同時に京都の持つ、常に外来から新し権力者、文化人、人気物等が来て活動するのをじっと見てきた伝統ではないか。
政治権力者から宗教家、さらに出雲阿国も、有名になったのは、京の四条河原での興行である。
その意味では、京都の人間の性格もよくわかるインタビューであるが、インタビューアーは山田宏一。
因みに、脚本書きから、準備、撮影、仕上げと試写会等のPRを含め、結局6ヶ月かかったそうだ。
その間の上野昂志のギャラは、たった15万円だったそうだ。