フェリーニの名作を見るのは3回目で、初めが高校生のときで、15年くらい前にテレビで見て、今回は作品に通低するカソリシズムに興味をおぼえた。
ザンパノに殺される狂言まわしの綱渡り芸人は、ジェルソミーナに言う。
「すべては役に立つ、石ころだって役にたつ。何かは俺は分からないが、神様はご存知だ」 カソリシズムの真髄である。
カソリックでは、すべては神が創造したことになっている。
だから、すべてのものには意味がある。神が無駄なものを創ることはないからだ。
それを極端まで引っ張っていけば、悪魔の存在や仕業、信教者の受難、大規模な天災等の災厄すら、神が作ったものだから、それは「我々の信仰度を試している試練なのだ」という倒錯した論理になる。
勿論、すべては神が作ったのではなく、長い間の地球上の生物の進化の結果であり、神は人間が作り出したものであることは、言うまでもない。
だが、このカソリシズムの気持ちは分からないではない。
この世の中に「自分の存在には意味があるのか」
人は特に不幸や不遇のとき、こんな疑問にとらわれる。
だが、それを意味ある過程と位置づけてくれれば不幸にも耐えられるというものだ。
だから、、カトリックは日本では「上流階級」の証だが、大変意外なことに欧米ではむしろ下層階級に支持者が多いことは、驚くべきことではないのである。
コメント
どうも。
なるほどつまり受難の映画、というわけですね…。