『コクリコ坂から』

宮崎駿企画・脚本、宮崎吾市監督の話題のアニメ、横浜が舞台で、林文子市長も広報宣伝しているので見に行く。
1963年頃のことで、横浜の港南高校に通学する長沢まさみの松崎海と岡田准一の風間俊との恋と高校の部室の存廃をめぐる話。
港南高校は、男女共学で丘の上にあり、位置からすると緑ヶ丘高校のようだが、緑は県立であり、私立ではない。
横浜に、共学の私立で、上位校はほとんどなく、あえて言えば慶応高校でだけであろう。
海が住む木造の洋風の崖の上の建物は、映画の中では、新山下付近だが、実際はもう少し離れた根岸あたりに多くあったもので、今もある。
俊がタグ・ボート乗りの父といる庶民的な町は、新山下だろう。

原作は、1980年代に書かれたそうで、細かいところでは、時代が混合している。
その例は、老朽化した部室をカルチェ・ラタンと呼んでいること。
言うまでもなく1966年のフランスの五月革命で、われわれは「カルチェ・ラタン」の名を知ったのであり、1963年にそう呼んでいたとすれば、この高校には随分フランス通の人がいたことになる。
また、主人公らが部室の存続を要望するため、東京の出版社社長の徳丸氏に会いに行く。
これは、勿論徳間書店社長の徳間康快のことで、社内には「アサヒ芸能」が置かれているが、同時に吉本隆明の『情況への発言』も応接室に並べられている。だが、この吉本の本が出されたのは、1963年ではなく、1968年である。

宮崎駿には、旧制高校的な教養主義と正義感とロマンチシズムがあり、それが部室のカルチェ・ラタンに表現されている。
同時に、海の妹たちが、テレビで坂本九の『上を向いて歩こう』や舟木一夫にしびれているように、1970年代以降のサブ・カルチャー時代への萌芽も示されているが、それは宮崎吾市のセンスなのだろう。
宮崎パパの教養主義と宮崎ジュニアのサブ・カルチャーの混合というのが、この作品の世界である。

宮崎駿は、「1960年代の石原裕次郎、吉永小百合、浅丘ルリ子、芦川いずみらの日活青春映画の世界を目指した」と言っていて、それは素晴らしい。
だが、ここには宍戸錠、金子信夫、安部徹、榎木兵衛のような魅力的な悪役と脇役を欠いていて、そのために「お子様映画」にしかなっていないと私は思う。
上大岡東宝シネマ

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