SPレコードの収集家で有名な保利透さんのぐらもくらぶ祭りとして『古川ロッパとエロ・グロ・ナンセンス』が江戸東京博物館ホールで行われた。
二部構成で、第一部は、保利さん、毛利真人さん、さらに大谷能生さんとの鼎談で、昭和初期のエロ・グロ・ナンセンス・ブームの様々なメディアを駆使しての紹介。
言うまでもなく、エロティシズムは、人類誕生以来あったはずで、日本の『古事記』の「天の岩戸」の話も、大和最初のストリップ・ショーである。東宝映画の『日本誕生』では、乙羽信子のアメノウズメノミコトが踊って、原節子の天照大神様を岩戸から出すことに成功する。この時の大男は、相撲の朝潮である。
エロは、江戸時代でも浮世絵や春画として存在したが、メディア上で「エロ」と言われたのは、昭和4年の朝日新聞でのコラムとのことだ。
このサイレント映画末から、昭和12年にレコードでの検閲が始まるまでの時期が、レコードなどでのエロ、グロ、ナンセンスの短い全盛時代だったとのこと。
そのものズバリの『エロ感時代の歌』などもあり、映像で見れば、日本最初のトーキー映画『マダムと女房』での隣の伊達里子が演じたマダムが典型的な姿である。
途中では、歌の山田参平とギターの武田篤彦のユニットの泊によるライブもあり、エノケンのSP『電話』は非常によくできたコント会話だった。
休憩後は、二部で佐藤利明さんの司会で、「古川ロッパ・リスペクト・ショー」、佐藤さんの話とロッパの映像、レコード演奏、さらにロッパ日記の片岡一郎さんによる朗読で、戦前のロッパの姿が立体的に描かれた。
その白眉は、昭和11年2月26日のロッパの日記で、言うまでもなく2・26事件の日だが、この日彼は東宝砧撮影所に行き、徳山暲と『歌う弥次喜多』の撮影をしていた。
終了後、銀座に出て食事して満足することで、この日は終わるが、まさにロッパにとっては、世間の情勢よりもその日の食い物の方が大事だったのだ。だが、3日後の2月29日の日記では、有楽座の彼の公演は満員で、「革命後のロシアを見るまでもない、日本人にも娯楽は必要だ」と自慢している。
この日の最大の映像は、この大ヒット作『歌う弥次喜多』の舞台の映像と音楽のライブ映像で、佐藤さんにお聞きすると、公表はできないそうだが、完全な映像が残されているのだそうだ。
どこかの旅館の場面で、ロッパや徳山と共に、三益愛子の女中がドタバタ劇を演じている。
以前から私も古川ロッパが大好きだったが、あらためてその偉大さを認識した一日だった。
ぐらもくらぶ祭りも、12年前のエノケン、去年の二村定一、今年の古川ロッパときたので、この次は柳家金語楼となるだろうが、個人的には徳川夢声による『夢声戦争日記』の朗読と映像による立体ショーをやってもらいたいと思った。
ここにもライブがあり、平成ロッパの北園優さんによる、ロッパそっくりの歌と形態模写には感心した。
また、保利さん得意の当時のマイクロフォンの使用があり、片岡さんの朗読が当時のマイクで行われたが、「これは当時のラジオの声だ」と思った。
来年もぜひやってほしいイベントで、新発売されたCDを2枚買ってしまう。
コメント
古川ロッパ
ウィキペディアを検索したら作品の数が沢山で凄い経歴です。
数ヶ月前のラジオで、中村メイコさんが、ロッパ氏が吝嗇と言われてたけど
度々プレゼントを頂いたこと、唯一とっておいたお気に入りの縫いぐるみを
昨年終活した際、ごめんなさい!と謝り、泣く泣く処分した。と話しておられました。
古川ロッパは
ロッパの全盛時代は、戦時中で、元は華族ですが、貧乏華族だったそうです。
戦後は、戦時中の時代迎合と人気凋落で、本当に貧乏だったようです。
唯一の監督作品『陽気な天国』の撮影を古賀政男邸で行ったとき、「ここに比べれば、内は鶏小屋だ」と書いています。
確かに映画で見ると、古賀邸は凄い、今は財団等の敷地になっています。
当時の芸人さんは
タップダンスも得意としてたそうですね。
前にTVで見た映像で、ジェームスギャグニーが「リトルマリー」という曲に合わせ
軽快にタップダンスを披露していたのを見たことありました。
古賀政男
親がラジオ好きで、子供の頃たまたま聴いていた番組で
素人コンクールで、何段階に挑戦しそのコースをクリアする都度
鳥がないて、鳥の名前が違うコースに出世していくような
記憶に自信ありませんが、そんな番組があり
何人かの審査員の中に古賀政男さんもおられました。
ある日の回で全盲の方が出場して、司会者が古賀政男さんに感想を求めたら
言葉を何回も詰まらせ、「、、、よく一生懸命、、、歌いましたね」、、、
それからの歌の批評は覚えてなく、最初のねぎらいの様子だけ
幼いながらハッキリと記憶に残っています。