先々週から、東京の豊洲のユナイテッドシネマ豊洲で行われた「第3回新人監督映画祭」に行き、多くの作品を見た。
その前に、コンペティション部門の28作品を見て、グランプリの審査もやって非常に面白かった。
玉石混淆という言葉があるが、まさにその通りで、
「こんなもの見せられることもそうだが、作ること自体が時間と金の無駄じゃないの」と思える作品もないわけではなかったが、「はっと」させられる作品もあり、貴重な体験だった。
さらに、審査会の議論や各作者の製作の事情等を聞くと、ドラマを作る瞬間が分かり、あらためてドラマについて考えた。
結論を言えば、物語性のないところにドラマはないということだ。
勿論、かつて1920年代の欧州で「純粋映画運動」があり、映像だけで映画を成立させる純粋映画や絶対映画があったが、結局物語性なくして映画は成立しないことが分かり、トーキーの発展もあり、それらは大衆とは無関係の一部の作家の実験として終わった。
また、日本でも、これは演劇の分野だが、演出家鈴木忠司は、「演劇は役者の演技のみで成立すべきで、テーマやストーリーなどは不要」と言っている。
だが、鈴木忠司は、演出家というよりは、役者のトレーナーであり、演技術の凄さを見せられても、それが演劇として面白いとは私には到底思えない。
彼は、たとえて言えば打撃コーチか投手コーチであり、監督として試合をい率いる者ではないので、彼の芝居は非常に面白くない。
この野球との比較で言えば、ドラマにおいて物語性とは、ルールのことであり、それはすべてのスポーツにルールがあるのと同じである。
もし、野球が9回で終了しなかったら、逆転劇も完封勝利もなく、そこにはドラマが生まれないと思う。
俗に野球は筋書のないドラマと言われるが、それも様々なルールの規制がある故である。規制のないところに自由もないのだ。
或いは、サッカーも、残り何分でリードしているから、時間経過の展開とのスリルも生まれるのだ。
だから、物語性のないドラマでは、そうしたスリルは絶対に出てこないのである。
勿論、野田秀樹のように、役者を集めてある期間、ワークショップをして劇を作るというやり方もある。
だが、そこでは概ね筋は決められているようで、さらに配役に合わせて修正すると言ったものであるようだ。
また、彼の場合は一流の俳優を使っているので、そこで新たな発見もあり、さらに劇を高められるようだ。
或いは、つかこうへいのように、与えられた役者の内部の屈折、劣等感と言った部分から肉体の持っている言語を引き出すという方法もある。
だが、彼もいくつかの作品では、劇にならず、中途で投げ出したものもあったとのことだ。
そのようにワークショップ的な方法から劇を作るのは結構難しいのであり、上手く行かず結局、演劇ごっこ、映画作りごっこに終わってしまうものもあるように思えた。
いずれにしても、映画や演劇の筋、物語など、目新しいものはなく、筋は大体似たりよったりである。要は、作者たちのセンスなのだというしかないだろう。
コンペティション部門の短編、中編、長編のグランプリ、凖グランプリ、さらに特別賞受賞作は、みな物語性が根底にきちんとある作品だったのは、実は当然のことなのだが。
それにしても豊洲の賑わいはすごかった。