町田嘉声さんは

先日、岳南鉄道について触れて書いた『チャッキリ節』の作詞者町田嘉声さんについて、「レコード寄席」で中村とうようさんが言っていたことを書いておく。

レコード寄席とは、中村とうようさんが、1970年代から1990年代まで、銀座コアビルの中のテクニクス銀座で月1回やっていた、レコードのコンサートである。

私も、偶然に見に行ってとうようさんの話が異常に面白く、また信用できる方と思って原稿を持って行ったのが、『ミュージック・マガジン』に批評を書くようになった切っ掛けである。

当時、1950年代クロニクルというのを最初にやっていて、とうようさんが最初にライナーを書いたというハリー・べラフォンテの『カーネギーホール・コンサート』をかけた。

「これは僕が最初にライナーノーツを書いたLPで、神棚に上げておかないといけないのだが・・・」と言われ、

彼が、日本にコンサートで来た時の話になり、「公演の純益を彼がどこか日本の民俗音楽の普及に貢献している団体に寄付したい」ということになった。

相談された中村とうようさんは、当時日本にフォークソングの研究団体などないので、東洋音楽学会に寄付することになり、当時は、町田嘉声さんが会長だったので、お渡しし、帰ることになった。

確か井の頭線の中だと思うが、席が空いていると、町田先生が大きな声で「中村君、ここだ!」と叫んで席を取ってくれたというのだ。

要は、非常に親切な人だったのだが、同時に町田先生は、中村とうようさんのように、大衆音楽を研究する若い人を育てることに非常に熱心だったということだと思う。

それは、中村とうようさんもまったく同じで、雑誌『ミュージック・マガジン』が育てた音楽評論家の数は極めて多いに違いない。

私は、晩年のとうようさんからは、破門された身だが。

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