『仁義の墓場』

伝説のヤクザ・石川力夫・渡哲也を主人公とする作品。
1926年に茨城で生まれた石川は、戦後新宿の和田組(ハナ肇が好演)の子分となる。
そこでは闇市の盛況を背景に、野津(尾津組のことで安藤昇)は、衆議院議員選挙に出るが落選する。これは実際にあったことで、京都では大映の永田雅一も出て落ちている。
石川は、ほとんど狂人のような凶暴な若者で、対立する連中ばかりか、親分にまで反抗するので、「10年ところばらい」となり、大阪に行く。
彼は釜ヶ崎で、芹明香や田中邦衛らと知り合う中で、麻薬中毒になってしまう。
そして、たった1年半で、新宿に戻って来てしまい、ハナ肇はもとより、石川の兄弟分の梅宮辰夫らとも事件を起こしてしまい刑務所に入れられる。
最後、彼は府中刑務所のビルの屋上から飛び降りて死ぬ。
「大笑い30年の馬鹿騒ぎ」 
これは彼があらかじめ立てておいた墓に掘らせた文句である。

これは1975年に東映で深作欣二監督で作られたものだが、実は1971年夏、日活で準備されていた。
伊地智啓によれば、この年の夏、「新たなヤクザ映画を」とのことで、藤田五郎原作のこの小説の映画化を監督することになった。
「死ぬ前に墓を作ってしまう・・・」ところに、当時の渡哲也主演で延々と続いていた『無頼』シリーズとは違うものができるのではと思ったのだそうだ。
そして、先輩の澤田幸弘監督の前で「箱書き」を説明していると、藤田敏八が現れて「お前そんなことやっても無駄だよ、どうだ俺のを手伝はないか」と言われ、製作したのが日活最後の『八月の濡れた砂』で、これを機に彼は助監督から制作に転向する。
そして、酒量が増え胃を壊すと、また藤田が来て、「この経験は生かさなくていけない、看護婦ポルノをやれ」と言われ、
ロマンポルノの人気シリーズの一つ「看護婦シリーズ」をすることになる。

国立映画アーカイブ

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