アジア的生産様式論では・・・王の責務は

経済学では、アジア的生産様式という時代区分がある。
西欧の古代時代の前に、アジア、アフリカ、インド等では、独自のアジア的生産様式の時代があったとするものだ。
ここでは、米など穀物の生産のために巨大な灌漑施設の建設が必要で、そのために巨大な権力を持つ帝王が生まれるというものだ。
つまり、施設整備のために強い権力を持つ王が生まれ、それに従う民は、総体的に「奴隷状態」になるとされる。
総体奴隷制と言われることもあるようだ。中国の秦の始皇帝が典型とのことだ。
日本の「天皇と臣民」という関係も、それに近いともいえるだろう。

日本でも、弥生時代に米が伝えられると、巨大権力の指揮の下で大きな灌漑施設が作られるようになる。
もともと、米の生産は、川の上流の谷戸地帯で行われていたのだが、それでは規模が大きくならずにいた。
そこで、次第に下流部の治水事業ができるようになり、広い沖積低地に田圃ができるようになる。
ここで、王権が成立するようになるのだそうだ。

そこで、重要なのは、古墳時代以来、権力者の第一の責務は、治水事業だったわけで、戦後でも建設省の最大の仕事は河川管理だった。
その後、高度成長時代になると、都市局が建設省の中心になってしまうのだが。
今回の台風19号の災害の大きさを見ると、やはり河川管理の重要性が分かる。

来週の10月22日には、新天皇即位を知らしめる行事が行われるというのは、少々皮肉な気がする。
なぜなら、古代の王制では、新しい王ができたとしても、その後にきちんとした収穫が生まれないときは、その王には王の資格がないとして、王位をはく奪されるということがあったことだ。
今年は、無事に米もできたとのことで、その心配はないわけだが。

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コメント

  1. より:

    これはつまらない机上の空論と言うか、御用学者的な意見ですね。

    王朝時代の公共事業が指導者の権力基盤と為ったのは確かで、古代専制には民衆に主体や人権意識というものは無かったでしょうが、徴兵、徴発などの動員力という意味においては、皇帝などよりも、大統領や首相権力、つまりは、近代政治における国民国家の時代とでは雲泥の差です。

    日本の封建制では、関ヶ原でさえ、東西軍で総勢20万程度の数で当代最大規模。処が二度の大戦では、100万でも1000万でも、自由や利益の為に動員出来たのです。こちらの権力の方が、損害という意味では甚大だと思います。

    公共事業も、萎びた神社の鳥居を建て直すとか、小さな仕事ならば民も疲弊しないでしょうが。

  2. 匿名 より:

    古代以前のことです。

  3. より:

    いえいえ、秦の始皇帝による公共事業には、戦国時代、六国と国力を競っていた時代の事業もあるようですが、統一が為ってからの阿房宮や万里の長城、霊渠といった大規模な建築こそが重要ではないですか。全土の民が動員された事は、新たな時代となったがゆえの、秦の支配力を見せつけるものだったと思います。

    同時に、秦にとっては民族の象徴のような大建築によって、威信を保って行く為には、強国でなければならないという事で、豊かさや文明の強さを示す大建築というのは、周辺の異民族への力量差の見せしめでもあると思います。それによって、自ら中華の盟主国だと宣誓するようなものでしょう。

  4. 匿名 より:

    それを、アジア的生産様式論では、古代以前と言うのですね。

  5. より:

    そのようですが、これは余り有名な時代区分ではないですね。

    中国については、宋代の方が裕福で西洋よりも先進的だった時代だそうです。
    三大発明の木版印刷、火薬、羅針盤が普及しているそうで、科挙の整備もこの頃、
    いわゆる受験戦争ですね。こうした大航海時代に影響を与えた技術力や、その基盤となる
    知識層への教育システムも整備されていますから、中国が西洋に差を付けられた理由は
    何でしょうかね。

  6. より:

    天皇と臣民の関係と言っても、いつの時代区分かによって、天皇の権力志向は異なると思います。

    例えば、対中関係において、聖徳太子の「日出づる国」の親書には日本の対中自立と独自外交の考え方が現れていると言われますが、それでは、隋唐時代に幾度も使節団を派遣したのは何故か。天皇が中華の版図に日本が参入する事に野心があったからだと言われ、そのような天皇の権力志向の強い時代と、後年、武士の台頭によって、最早覇者では無く存在感を失って行った時期とでは、「天皇と臣民」との関係は異なるでしょう。

    また、明治維新によって、覇者としての天皇の復権が為ったら、やはり権力は段違いに拡張されていると思います。

  7. より:

    指田文夫さん

    天皇の人的基盤と言いますと、本来は万民に至り、徴税などの経済基盤でもあると思いますが、天皇と臣民との関係で最も危うかった時期というのは、南北朝時代でしょうね。正統争いで劣勢に為り、万民に戴かれるのではなく、後醍醐天皇は商工業者や悪党、つまり武士の亜流、らを人的基盤としたと言いますから、北朝に勝てないわけですね。

    室町幕府に敗れた形になるわけですが、義満は宋への朝貢から日本国王に、これは明らかな親中外交で、万民、つまりは、農耕国家として、本来の武士の基盤を持ちながら、反主流的な親中外交を取ったのは、室町幕府、つまりは西日本方の勢力が利益主義的だったからでしょうね。