存在感のある役者

私が一番嫌いな言葉で、よく若い俳優等が「将来どういう俳優になりたいか」と聞かれて答えるものに「存在感のある役者」というのがある。
彼らが言う「存在感のある俳優」とは、自分勝手な演技を無作法にする役者のようだ。
だが、本当に「存在感のある役者」とは、『箱根風雲録』の主役の河原崎長十郎のような役者を言うのである。
彼は、大げさな演技を全くせず自然な演技で、ほとんどいるだけで劇を引っ張っていく。
この映画のみならず、山中貞雄の名作『河内山宗春』での河原崎の河内山宗春を見れば明らかだろう。
前進座の盟友であった中村翫右衛門が、いつもやりすぎるくらいの熱演であるのに対し、河原崎はほとんど演技しないように見えた。
まさに存在感で見せていた。
多分、彼に匹敵するのは、現在の松本幸四郎の父である先代の松本幸四郎、晩年の白鸚くらいではなかっただろうか。私は見ていないので、はっきりとは言えないが、先代の市村羽左衛門や中村吉右衛門なども、そうした傾向だったようだ。

白鸚も、ある意味大変不器用な役者で、器用な芝居は出来ず、昭和30年代に加入した東宝の公演では、長谷川一夫、中村勘三郎らの器用な演技にしばしば「煮え湯」を飲まされるような不愉快な思いをしたようである。
だが、偉大な武将や貴族などの役を演じると本当に様になったと千谷道雄が書いている。
現在も確認できるのは岡本喜八の映画『日本の一番長い日』で、ここで彼は昭和天皇を演じ、正面からではなく後ろ姿で出ている。

彼も、また当時の映画人は、天皇を出して「喜劇」になってはいけないと、大変気を使ってこのシーンを撮影したそうだ。
最近では、『ラストサムライ』で明治天皇が堂々と出てきたように、皇族役も珍しいことではないが、一昔前までは、「事件」だったのだ。

河原崎長十郎には、河原崎長一郎、次郎、健三の三人の息子がいたが、誰も長十郎の芸風を受け継いではいないようだ。
是非、彼らの息子たち、つまり長十郎の孫の中に、長十郎の芸風を継承できる役者が出てくることを期待したい。

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