1980年代、「演劇新人類」なるキャッチ・フレーズで人気だった劇作家・演出家たちがいた。野田秀樹、鴻上尚史、渡辺えり子、川村毅、そして如月小春ら。
彼らをろくに見もせずに持ち上げていたのが、先日亡くなった筑紫哲也で、その頃から信用できなかった。
本物だと思ったのは野田秀樹のみで、現在では、他は大した者になっていない。虚名のみ大きく、実際は大問題だったのが、如月小春で、友人と新宿で『トロイメライ』を見たが、そのひどさには二人とも激怒した。
彼女の本も買って読んでいる。
感覚的に面白いところもあったが、内容に乏しかった。
だが、こんな本が出ていたとは知らなかった。
元は、1992年雑誌「すばる」に連載されたもので、彼女の死後2006年に出たのだそうだ。
まず、中村伸郎が文学座に入った昭和初期の演劇界の動向から戦時中のことまで、きちんと整理されて書かれている。
ちゃんとできるじゃないか。彼女は元々受験秀才なんだろう、物事を調べて書くのはうまいのである。
文学座での岸田国士の指導、それ以前に友田恭助の演技を見て、中村伸郎が会得した演技術がとても興味深い。
友田は、彼の妻田村秋子が完璧に台詞を入れ、動きも決めて舞台に立つ役者だったのに対し、ほとんど台詞は憶えず、プロンプターの中村の台詞付けを待ちつつ台詞を言うが、それが絶妙の間だったのだそうだ。
友田は、言わば後の勝新太郎などに近い天性の役者だったのだろう。
彼の死が当時の演劇人に与えた打撃の大きさがよく分からなかったが、勝新太郎のような役者だったとしたら、確かに大きな損失だっただろう。
そして、戦後の松竹映画での小津安二郎映画での「演技指導」は、この本で最も面白いところである。
小津安二郎の、誇張した嘘の演技を一切拒否し、「さらりと言う、だがハートを入れる」というやり方。
要は「余計なことはするな」と言うことだが、それに同調しつつ、視線の動きなど、自分のしたい演技をさり気なく入れる中村の小狡さと工夫。
そして、この本で私が如月を見直したのは、彼女が小津安二郎の映画『東京暮色』を高く評価し、そこでの中村伸郎の演技も評価しているところである。
『東京暮色』で、中村伸郎は、夫の笠智衆を捨て、会社の部下と満州に逃げた妻山田五十鈴の再婚相手で、どこか得体の知れない、うだつの上がらない男を演じている。
『東京暮色』は、批評家や小津安二郎自身もその出来を否定し、特に高橋治の評伝『絢爛たる影絵』では最も酷評され、現在では小津の失敗の代表作とされている。
だが、私は(そして如月も)、小津の他の作品には見られない戦後の苦い現実に触れた傑作だと思っている。
だが、如月の叙述が光るのは、このあたりから三島由紀夫と行動を共にして文学座を出るあたりまでで、晩年の別役実との共同作業の作品群に来ると途端につまらなくなる。
何故か。
その理由は、如月が本質的に観念的な人間で、別役の劇や中村の演技等の叙述が明確でなく、迷路にでも入ったようになってしまうからだ。
また、松竹の小津安二郎作品では、食べ物は常に本物が出たというのも初めて知った。
酒、寿司、肴等すべて本物の上等な品だったそうで、俳優は十分味わいながら撮影していたそうだ。とても贅沢な撮影だったわけだ。
小津安二郎の最後の作品『秋刀魚の味』で、東野英冶郎が酔って醜態を演じるシーンがある。
あれも本当のウィスキーを出していたため、酒に弱かった東野が本当に酔ってしまったからだそうだ。
彼女は、劇作家にこだわらず、普通の物書きをしていたら、もっと良い書き手になったのでないかと思った。
如月小春のご冥福をお祈りする。
コメント
小津安二郎 の妹
『俳優の領分 中村伸郎と昭和の劇作家たち』 如月小春 … そして、戦後の松竹映画での小津安二郎映画での「演技指導」は、この本で最も面白いところである。 小津安二郎の、誇張した嘘の演技を一切拒否し、「さらりと言う、だがハートを入れる」という方法。 要は「余計…