原作は伊藤整のベストセラー小説で、白坂依志夫脚本、増村保造監督の昭和34年の大映映画。
増村は昔から大好きでほとんど見てきたが、これは余り上映されず、先週新杉田のTSUTAYAにあったので、早速借りてくる。
増村の作品の中でも、日本の現代社会を鳥瞰した傑作だった。
原作は所謂「全体小説」で、日本の社会全体を描こうとしたものだが、映画もかなり上手に再現している。
科学会社の地味な技術者だった佐分利信は、接着剤の発明で一躍有名になり、会社も彼を重役にする。
と、彼の周囲が一変する。
家には伊藤雄之助らの奇妙な華道の連中が出入りし、娘の若尾文子は国立大学の助手川崎敬三とでき、佐分利のところには戦時中に同棲した女教師の左幸子が子を連れて現れ、ついには貞淑な妻沢村貞子までが若尾のピアノ教師船越英二の餌食になってしまう。
最後、ドイツから会社が買って来た特許の改良を川崎にやらせるが、その手柄も国立大学の堕落した教授の中村伸郎に横取りされ、自分は重役を辞任して平技術者に戻る。
家を出て、左の家に行くが、左の言葉はみな嘘で、戦後疎開から家族が田舎から戻って来たとき、「自分を捨てて家族に戻ったあなたに私を愛する資格はないわ!」と突き放されてしまう。
この辺は、成瀬巳喜男の名作『浮雲』とその戦後篇である『妻として女として』によく似た構造である。
この映画は、昭和34年の時代という横軸と戦中・戦後という縦軸が見事に重なった「全体映画」になっている。
最後、佐分利は、元の研究室に戻り、職工の多々良純と冷酒をコップで飲む。
無事会社に入社した川崎は、若尾を捨て、重役の娘らしい金田一敦子と石油タンクの上で抱擁する。
増村と白坂ら戦後派世代は、「戦前派はもう終わりで、これからは我々の時代だ」と言っているように見える。だが、映画『殺したのは誰だ』で、「戦前派はもうお呼びでない」と宣言した監督中平康ほど単純には言っていないように私には思える。
公開当時、この映画はひどく誇張されたあり得ない話として批判されたようだ。
だが、その後の経済の高度成長とバブルを経た日本社会にとって、これは極めてありふれた物語のように見える。
こんなことは、当時日本の誰もが経験したことのように私には思えるからだ。
その意味で、これもまた実に先駆的、予知的な作品である。
増村はやはり面白い。