『復活』

映画『復活』は、1950年の大映京都作品で、脚本は依田義賢、監督は野淵昶である。
野淵は、今では忘れられた監督だが、戦前は大学教授、劇団主催者、そして映画監督と多彩な活躍をした人で有名だったようだ。
彼の劇団エラン・ヴィタールからは、東映で優れた作品を作った監督の沢島忠が出ている。

主演は、京マチ子で、相手役は小林桂樹と滝沢修。
話は、トルストイと似ていて、大富豪で爵位を持つ村井家の息子の邦彦の小林が、白浜の叔父の家に行き、そこで美しく育った女中のゆき(京マチ子)に会い、一目惚れしてしまう。
そして、当然のごとく小林は、ある夜、無理やり京マチ子と性交してしまう。
小林は、士官で、時は昭和12年、この後、戦争の推移とドラマはどう関わるのかと思うが、あまりない。
若き小林は、いい加減な男だったが、次第に真剣に京マチ子のことを考えるようになり、ある時戦地から帰郷した時、家族に「ゆきはどうなったの」と聞くと、家を出て行方不明だという。

小林の友人に滝沢がいて、彼がある著作で裁判に掛けられていて、その弁護のために裁判所に行くと、そこで京マチ子と再会する。
京マチ子は、カフェーで売春をさせられていて、ある夜、泥棒のような客が大金をもって店に来たので、「強奪しよう」と店の主人夫妻が男に毒薬を飲ませて殺すのの手伝いをさせられて死刑を求刑されていた。
小林は驚き、知り合いの弁護士に依頼して、無罪にして未決刑務所から解放してあげる。
釈放の日に行くと京マチ子は、早朝にすでに去っていて、小林のもとから姿を消す。

だが、刑務所で病気(結核だろう)になり、病院で治療している滝沢のところに見舞いに来ると、そこで働いているのは、京マチ子!
三度目の遇会はおかしいが、当時の映画では許される範囲と言える。
ここからは、共に京マチ子を愛する小林と滝沢のどちらと結ばれるかだが、最後「北海道で貧しい者の味方として働く」という滝沢に、恋人ではなく下僕として働くという京マチ子が船で行くところを、岸壁に立つ小林桂樹が見送るところで終わり。

この映画で興味深いのは、昭和12年でありながら、白浜の教会ではクリスマスのミサが行われていることで、当時すでに中国との戦争は始っていたが、世間は反米ではなかったこと。
また、滝沢は、「キリスト教社会主義者」と小林に形容されているように、戦前から敗戦直後まで、キリスト教社会主義者は多くいたことだ。戦後、最初の社会党の首相となった「グズテツ」と言われた片山哲は、キリスト教徒で、国粋的な吉田茂よりも、マッカーサーは、片山哲をクリスチャンとして信頼していたのだ。戦後、日本でキリスト教が次第に力を失って今日に至っているのは、彼らが戦争に対して戦わなかったからだと思う。

衛星劇場

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