黄金町のシネマ・ジャックで『キサラギ』と『天然コケッコー』を見る。
『キサラギ』は、考えた趣向があってなかなか面白かったが、『天然コケッコー』は、一部で評価が高いようだが、私は一番嫌いなタイプの映画である。
要するに、10代の少女と少年の微妙な感覚のみを売り物する映画であり、不快なのだ。
こういう作品は、ヒロインで決まるが、主人公の夏帆に特別の魅力はない。第一夏休みにみんなで近くの海に行き海水浴をするが、彼女の水着姿がないのは観客へのサービスに欠けている。
極めてお高くとまった映画なのだ。
『ゆれる』で、カメラマンの弟オダギリ・ジョーが住んでいる東京が素晴らしく、ガソリンスタンドをやっている香川照之の兄の地方の生活が灰色とされているのが全くの誤りであるように、この映画で小・中学校生徒全部で6人という過疎の村の生活の賛美も同様に間違いなのである。
別の見方をすれば、『ALWAYS3丁目の夕日』と同様の嘘話の、田舎版といえるかもしれない。
『キサラギ』は、ストーリーの詳細は書けないが、1年前に自殺したアイドル歌手の「追悼オフ会」に集まった5人の男が、何らかの形で死んだアイドル如月ミキに実は関係していたことが分かるのと、彼女の自殺の真相が明らかにされる、という討論劇である。
香川照之、ユースケ・サンタマリアらが激論を交わすが、完全に小劇場芝居の感覚である。
恐らく、脚本は相当につかこうへいを意識しているのだろう。
つかと違うのは、ここには現実への毒がないことだが、それは別に良い。
だが、根本的な問題を指摘すれば、アイドル不在の2000年代の現在にアイドルをめぐる劇をすることの虚しさであろう。
インターネット・テレビの『ビデオ・ニュース』11月30日号で、アイドル評論家中森明夫が、神保哲生、宮台真司と「史上最強のアイドル論」をやっている。
そこでの結論は、1960年代の南沙織に始まり、天知真理、小柳ルミ子、中森明菜、ピンクレディー、キャンディーズ、松田聖子、小泉今日子らアイドル歌手の系譜は、2000年代に来て完全に消えたのだそうだ。
そして、現在のアイドルは、フィギア・スケートの浅田真央であり、ビーチ・バレーの浅尾美和らスポーツ界の女性なのだそうだ。
確かに、彼女たちの人気は相当なものがあり、今や日本の誰でもが知っている少女である。
この現在のアイドル歌手不在の中で、アイドルをめぐる過剰な劇がどこか白けるのは、多分その性だろうと思った。