大林少年が見たのは・・・

大林宣彦監督が亡くなられたが、彼は戦後の日本映画の監督には珍しく、沢山の古い日本映画や洋画を見ていた方だった。
戦後の多くの監督は、実は映画青年ではなかったのに対しきわめて対照的である。

松竹の大島渚、篠田正浩、吉田喜重らの監督の中で、映画、特に日本映画をよく見ていたのは、篠田くらいで、大島や吉田は映画青年ではなかった。演劇や文学には関心があったが。
なぜ彼らが、映画会社に入ったかといえば、当時映画産業は、文化産業として最高のものとされていたので、大島や吉田のような国立大学の秀才が撮影所に入って来たのである。
それまでは、映画界は、ヤクザの世界で、まともな人間が行くところとはみなされていなかった。
だから、溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男、そして黒澤明の4大監督は、全員大学を出ていず、大学を受験したのも小津安二郎だけのようだ。
他の3人は、もともと絵、さらに映画が好きだったので、なんとか撮影所に入ったのである。
戦後の大きな映画界の地位向上の中で、国立大や早稲田、慶応、あるいは日大芸術学部出の若者でないと撮影所には正式に入れなくなったのだ。
だから、大林青年は、映画会社に入れず、自分で作るようになる。個人映画の作家として自由に映画を作っていたが、それがテレビのコマーシャル会社に注目されて作品を作るようになったのだ。
以降のことは多くの方が書かれているので、私は書かない。

彼の本で面白かったのは、敗戦直後、日本中は大映画ブームで、尾道でも多数の作品が上映されたそうだ。
だから、新作だけでは間に合わず、戦前、戦中はもとより、ついにはサイレント映画までが尾道で上映されたとのこと。
サイレント映画だと、活弁、映画の説明者が必要となるが、それはトーキー映画のために活弁を辞めて紙芝居をやっていた叔父さんが、活弁をやったのだという。
これは、トーキー映画以後の、活弁の方の就職先として面白い実例だと思う。
また、同時に紙芝居は、活弁の影響を受けていることも明らかにされるものだろう。
だが、いったい大林少年は、どういう古い作品を見たのか、大いに興味のあるところだ。
というのも、この時期に、戦前、戦中のヒット映画は、再編集されて上映されていたからだ。
一例を上げれば、松竹の大ヒット作の『愛染かつら』は、4部まで作られたが、現存するのは総集編しかなく、全体の半分くらいである。
ポジはもちろん、ネガフィルムもないのだから本当にひどいと思う。
再編集版を作るのは良いが、ネガを捨ててしまったのは本当にひどいと思う。

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