小津安二郎の映画は、絶対映画であると言ったのは、篠田正浩である。
一九五〇年代末に、篠田は、呼ばれて東京の松竹の城戸四郎社長の家に行った。
城戸は、篠田に聞いた、「君はギャグをどのくらい知っているか」と。
篠田が、二・三のギャグを上げると、それだけかねと、自分でアメリカのサイレント映画のギャグを次から次へと上げた。
そして、「君は小津安二郎をどう思うかね」と来て、
篠田が小津作品を褒めると、
「なんであんなものが良いのだ。望遠も広角もないし、アップもなければ引きもない、あんな死んだ映画のどこがいいんだ」と言った。
その時、篠田は、「1920年代に絶対映画があったが、私は小津にそれを見ます」と言い、
「小津映画は、永遠に不滅です!」と言い切った。
この絶対映画、純粋映画というのは、欧州で起きた運動で、映画を映像だけで作るというものだった。
文学、演劇、思想などに従属するものではなく、映像だけで映画を作るべきだと言う運動だった。
『アンダルシアの犬』などがそうだ。
だが、それらは、20分くらいが限界で、それ以上は見ていられないし、大衆にも普及できるものではない。
小津安二郎の映画、特に戦後の作品は、その主題、筋、俳優等がほとんど同じである。
家庭にいる娘を、どうやって結婚させるか、お嫁に行かせるかである。
だが、見ていて飽きないし、非常に心地が良い。
それは、小津の映画が、そこに主題がほとんどなく、ただ見ていて心地よく進行するのに、身を任せておければ良いからだと思う。
これは、一種の絶対映画だと私は思うのだ。