大相撲の八百長が問題になり、裁判にまでなっている。
実に滑稽である。
国文学者の折口信夫は、「相撲は芝居だ」と言っている。神と人間との吉凶を占う神事、演劇だと書いている。
土俵の上にある屋根からの垂れ幕、あれは歌舞伎の舞台の上にある一文字で、これはどちらも聖域であることを示すものである。
相撲には演劇、芸能としての側面が強くある。
第一に、土俵の外に出たら負け、とか土俵の土が付くと負けと言うのも、非常に不思議なルールである。
他の格闘技で、こんな変わったルールはない。
相撲は、形の美しさを常に問題にする競技で、土俵の外に出されるとか、土が付くというのはいずれも、きたないこと、みっともないことをやったら負け、というきわめて美学的なルールに基づくものなのである。
これだけでも相撲は大変特殊なスポーツである。
相撲は劇なのだから。本質的に八百長はあって良いのである。
芝居では、毎日ロメオとジュリエットは出会い、恋して互いに死ぬ。
すべてそれは嘘であり、本当の恋でもなければ、自殺でもない。
ハムレットも芝居の中で必ず殺される。
これも嘘であり、本当に殺されるわけではない。
でも、それに文句を言う人間はいない。
「本当に殺せ」と言うバカはいないのだ。
相撲も同じで、演技として取組みをする場合もあるだろう。
それくらい出来なくて、何が大相撲の力士だと思うのである。
昔、小泉純一郎元首相が「感動した!」と言った、貴乃花と武蔵丸の優勝決定戦、あれなどは完全な八百長であろう。
ああいうのを問題にせずに、普段の取組みを問題にするのはおかしいのではないか。
あれは、貴乃花の怪我があるので、わざと負けたのは良いのだろうか。
実におかしなものだと思う。
あの小泉元首相の言葉に喝采を送った人間に八百長云々する権利はないと私は思う。
コメント
好きなネタには相変わらず甘いですなぁ
いま、若貴から豚高へ
私がいつものようにポコチン丸出しで街をさまよい歩いていると、怒りと怯えのパニックに陥った小学生の一群が石礫を私のポコチンめがけて投げつけ、的が大きいだけに当たりやすく、忽ち悶絶。愉快なひとときを過ごすのだった。