主役は時計だった 『わたしたちは無傷な別人であるのか?』

バンクーバー・オリンピックの閉会式が行われた月曜日の夜、横浜美術館で岡田利規とチェルフィッチュの『わたしたちは無傷な別人であるのか?』が行われた。

実にひどいものだったが、外人まで多数来ているのは、一体どういうこなのだろうか。
話は、幸せに見える中年男についての叙述と、沢田さんの家に行くみずきチャンについての、ある土曜日についての経緯である。
そして、ドラマは何も起こらず、「明日は2009年8月30日の衆議院議員選挙だった」と言うもの。

一体どこが面白いと言うのだろうか。
勿論、岡田はこうした批判を百も承知でやっている。
それより、われわれの演技の新しさ、革命性を見てくれと言いたいのだろう。
役者たちは、稚拙な台詞に全く合わせず、台詞と関係のない動作をする。
これは、演劇の基本である、台詞と動きの同調の基本を破壊するものだろう。
だが、こうした表現方法の破壊は、20世紀ではダダイズム以来行われて来たものだが、今や誰もやらないものである。
当然で、いくら表現様式を破壊したところで、内容は変わらないからだ。
無調性とミニマル・ミュージックに近似している点で、岡田の劇は、1980年代のバブル演劇の象徴だった如月小春にとてもよく似ている。
中身のなさ、マスコミへの売れ具合も同じである。

そして、この退屈極まりない劇を救っていたのは、舞台中央に下げられた時計だった。
それは、実際の時間で、「ああこの愚劣劇も、あと30分で終わる、あと15分、もう5分」と時間の進行に救われたのだから、この日の主役は時計と言うべきである。
これは、すごいアイディアであると岡田君に感心した。

ともかく、この岡田の劇を見ることの苦痛は凄い。
まるで人格修養をした気分で終わった。
まったく面白くないものを2時間近くじっと見ている人格修養である。
この劇を、是非少年院の「キレル」少年たちに見せて欲しいと思う。
彼らは、どういう反応を示すだろうか。

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