「こんな程度だったの?」   青年座公演『昭和の子供』

芝居と言うのは、実際に見ないと分からないもので、西島大・作のこの劇は、名作ではないが、「60年安保」を題材とした創作劇として、一応有名だった。
だが、見ると「この程度の劇だったの?」が、正直な感想である。
1961年の初演以来、再演されたことがなく、作者の西島が今年3月に亡くなったので、追悼公演として上演された。
西島は、映画やテレビの脚本家として活躍したが、一番有名なのは、石原裕次郎、北原三枝主演の大ヒット映画『嵐を呼ぶ男』で、テレビでは、『事件記者』がある。

見て、最初に思い出したのは、数年前にこれまた数十年ぶりに本土で再演された、沖縄のちねんせいしんの劇『人類館』だった。
これについては、見たときに書いたが、今時は高校演劇でも、こんなに生硬な政治的台詞は言わないだろうというもの。

『昭和の子供』の初演の演出は、知的なインテリ役の多かった成瀬昌彦だが、どういう演出をしたのだろうか。
評論家奥野健男の批評では、かなり評価されてあったように記憶しているが、本当はどうだったのだろうか。

話は、安保反対のデモに嬉々としてとして行く若妻に対し、参加できない一回り年上の作曲家の夫が主人公。
だが、5月の自民党の衆議院での単独強行採決は、「民主主義の破壊」との怒りから、彼もデモに参加し、その中で一人の右翼少年に邂逅する。
そして、自分は戦時中は皇国少年で、昭和20年8月15日のとき、宮城前で集団自殺の仲間で、自殺しようとして、実は姉の体によって阻止された事実を告白する。
これは、三島由紀夫の『十日の菊』等でも描かれた、政治とセックスの問題である。

西島の右翼体験の告白は、当時はすべてが左翼陣営だった新劇界では衝撃的だったそうが、今は特に感じはない。彼は国学院大学の卒業なので、本当に右翼少年だったのだろう。

だが、最後、主人公が昭和天皇に「ご退位なさってください!」と叫ぶところはには、西島の肉声があり、衝撃を感じた。
「天皇退位論」は、近衛文麿はじめ保守陣営からもあったものである。
昭和天皇が、敗戦の責任を取らなかった、いやアメリカによって取らせられなかったことが、今日に至る日本の戦後社会の「無責任さ」のすべての根源というべきだろう。
劇中の台詞で、国体明徴運動を「こくたいめいじょううんどう」と言っている者がいた。言うまでもなく「こくたいめいちょううんどう」である。

その中で、戦時中に『一番美しく』という戦意高揚映画を監督したにもかかわらず、自分は兵役につかなかった罪への懺悔、贖罪が、戦後の1949年の『静かなる決闘』以後の黒澤明映画の本質というのが、私も見方だが、これはいずれ詳しく書こう。

代々木八幡青年座劇場

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