劇団青年座の公演、作マキノ・ノゾミ、演出宮田慶子、役者はばあや今井和子の他は、知らない人ばかりだが、芝居は上手い。今井は、まだ若いので、腰がしゃんとしていて、明治時代のばあやには見えない。これも超高齢化時代のおかげだろうか。
話は、簡単に言えば坊ちゃんが出て来ない『坊ちゃん』であり、主人公は教頭の赤シャツ。
つまり、坊ちゃん側から見て、書かれている夏目漱石の小説『坊ちゃん』を、赤シャツ側から見た、彼を救済したドラマである。
坊ちゃんは、痛快青春小説的で、映画、テレビ、芝居にもなっている他、あらゆる学園ものの基になっている。
石坂洋次郎の『青い山脈』『何処へ』から、テレビの「学園もの」まで、ほとんど『坊ちゃん』のパターンを踏襲している。
田舎に教師が都会から赴任してくる(これは男女どちらでもよい)、そこは因習的な地域で、地域ボスが学園上層部と結託し、非民主的なことが行われていて、それに主人公が戦うドラマである。
主人公の坊ちゃんは、なんとなく漱石その人のように普通は思い込んでいるが、よく考えれば漱石は、あのように単純明快で、痛快無比な青年であるはずがない。
むしろ、西洋帰りの文学士のインテリの、赤シャツに戯画化された人間に近いはずだ。
そう考えると、ずいぶん漱石は自己を客観視して、戯画化したことになる。すごい。
そのことがはっきりするのは、中盤で赤シャツが、本籍を北海道に移していて、「徴兵忌避」を告白、懺悔するところである。
丸谷才一によって、「徴兵忌避者としての漱石」が指摘されているが、これは事実である。
小説『坊ちゃん』の赤シャツにそうした性格付けがされていたとは記憶していないが、赤シャツこそを漱石とすれば、そうした解釈になるのは当然だろう。
最後、赤シャツは、中学教頭を辞め、マドンナとの結婚せず、芸者小鈴と一緒になることを示唆して終わる。
きわめて今日的なフェミニズム・ドラマというべきか。
今度、新国立劇場の芸術監督になる宮田慶子の演出は、旧新劇系の演出家に共通の弱点であるサブ・カルチャーに疎い点があるのだが、明治時代の話なので、それは暴露されず。
ただ、前半がドタバタ劇のように軽いのは少々観客に迎合しすぎではあるまいか。
観客は、例会だったのだろう、東京労演の会員が多い。
労演なんて、まだ存在していたんだね、知らなかった。いずれにせよ高齢者演劇同好会である。
下北沢本多劇場。
下北沢の駅は相変わらずひどい。
今時、こんなバリア・フリー化に反している駅も日本国中にないだろう。
早く小田急線を高層化し、駅を根本的に再開発すべきである。
一部に反対している連中がいるらしいが、本当のばか者である。
一日も早く下北沢駅が改良されることを望みたい。