『麦の穂の揺れる穂先に』

鎌倉芸術館で、平田オリザ作、戌井一郎演出の『麦の穂の揺れる穂先に』を見る。
自慢ではないが、鎌倉とシャンソンが嫌いだ。
どちらも偉そうな顔をして、不当に過大評価されているからだ。
見た感想は、できは悪くないが、見た人すべてに吉田修一の傑作『悪人』を読ませたいと言うものだ。

言うまでもなく、この劇は、小津安二郎の『晩春』『麦秋』をもとにしている。
このような戦後の小津作品は、簡単に言えば父親の笠智衆が、娘の原節子を嫁にやる話である。
そこでは、性的道徳は、きわめて保守的に踏まえられている。
戦後社会の混乱から太陽族に至る性的革命はまったく反映されていない。
そして、結婚に至る過程は、きわめて巧みに構成されている。
『晩春』では、息子二本柳寛が、秋田に赴任することが決まり、その報告に来た杉村春子は、その帰り、「もしもよ、紀子さんが一緒の行ってくれたらな」
と言うと、原節子は「私のようなおばあちゃんでいい?」と聞き承諾する。
そして、杉村は、その日財布を拾ったことを思い出し「やっぱりいいことがあったわ」と喜ぶ。

ここは、数多い杉村の演技でも、映画史に残る上手さであろう。
しかも、これは実に巧みに男からの求婚を回避した方法である。昔から、日本では男は容易には、女性に求婚などしないものだったからである。
その証拠に、その夜家に帰った二本柳に、杉村が原節子の承諾のことを告げるが、彼は大してうれしそうな顔をしないのだ。

このシークエンスは、平田の劇でも使用されている。
そして、最後は江守が、親類の独身女性との再婚を匂わしていたのは、娘が結婚を踏み切るための策略だったことが明かされる。

ともかく、この劇を見て感動している人たちにとっては、多分性的道徳は、昭和20年代の小津安二郎映画と同じなのだろう。
だが、今の現状はどうか。
バブル崩壊以後の格差社会の中で、下流社会層では、吉田修一の『悪人』に見られるように、若者にはセックスとギャンブルしか生きる目的はなくなっている。
内閣参与でもある平田先生は、どのように考えるのでしょうか。

江守は、笠智衆に比しいくら何でも太りすぎ、栗田桃子を原節子に比べるのは可愛そうと言うものだろう。
倉野章子のしぐさは、杉村春子そっくりだったが、わざとまねしているのか。

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コメント

  1. 洞澤 より:

    Unknown
    先週は原節子の90歳の誕生日とのことで英紙ガーディアンにオマージュ記事が掲載されていると聞かされ読んでみました。内容的には紀子三部作の紹介みたいな記事でたいしたことありませんでしたが、日本の新聞に同じような趣旨の記事は載ったのでしょうか。ないとすれば、とても残念なことです。なんと言っても好悪を超越し、20世紀の生ける伝説的存在、そう呼ばれるであろう多分最後のスターですから。

    比較するのもなんですが、別のエントリーにあった金語楼師匠の記憶が彼と同世代人である戦前派の退場と共に消え去ってしまったのは、ある程度、仕方がないと思います。しかし原節子は別格的存在ですし、節目には顕彰記事を掲げるのはジャーナリズムにとって当然のことだと私は思います。

  2. さすらい日乗 より:

    乙羽信子によれば
    原節子って、それほど興味がないのです。
    女優・乙羽信子の本によれば、とても気さくな女性で、あの神秘性は、完全に映画の中だけのものだそうです。
    そうなると、演技がすごいと言うことになりますね。

  3. 村石太君マン&ウリウリ星人? より:

    江守徹さんと あの役者は 兄弟かなぁ
    映画は 一般的な娯楽ですが 演劇は テレビでもやりますが あまり知られていない娯楽かなぁ。演劇も チョーおもしろいのもあるのですけれどね。どちらかというと そこに 人生があるというか。昨日 夜 麦の穂の揺れる穂先に を テレビで見れなかった。
    演劇 コンサート 球場観戦 生プロレス
    生大相撲 他