ヤン・リーピンの『クラナゾ』を見に行く。
一言で言えば、チベット観光ショーである。
幕開け前に、ステージの前面に天井までに届くような巨大な円筒が並んでいて、それを男女が回している。
確かチベット等で行われている、この曼荼羅絵の円筒を回すと、何千回もの功徳を積んだことになるものだったと思う。
この辺から、随分とインチキ臭いなと思うが、展開はひどく厳かに進む。
話は、チベットの地方の老婆が、聖地ラサに巡礼して行く過程で得る、様々なチベットの民俗舞踊、音楽であり、その意味ではロード・ムービーならぬロード・ショーである。
音楽の歌は、アグネス・チャンのキンキン声を数倍も高くして、それを数十人が合唱するもの。
踊りはほとんど大群集の足踏みで、言ってみれば「ヨサコイ・ソーラン」である。
この二つが合わさるのだから、その不愉快さには到底まともな神経が耐えられるものではないが、観客は熱心に聞いているのには驚く。
こうした甲高い声と言うのは、一般的に田舎の産物で、日本の音階では、甲音と乙音があり、前者は民謡等の地方の音楽、後者は長唄、常磐津、新内等の江戸等の都市の音楽の音階である。
俗に「乙な味とか、乙な女」などというのも、本来は低い声や音を言い、渋めなものの美しさを言うもだ。
この観光ショーは、「乙な」ところは微塵もない美学である。
これがどこまでチベット文化で、中国そのものと、どう違うのかは私には分からないが、基本的に中国に「乙な」文化芸術はない。
そして、ここには様々な、かつてソ連圏で行われた「民族文化」の遺産が取り入れられているように見えた。
その典型が、ラサのポタラ宮殿で、大勢の若者が土を固めるボランティア作業をするとき、足踏みと先が円盤状になったスコップで大地を叩くときの音楽である。それは、レバノンの大歌手ファイルーツが、遺跡での「バールベック音楽祭」でやったレバノンの建国神話『The Days of Fakhr Eddeen』にそっくりなのだ。
こうした民族文化は、日本でも戦後、国民文化論の下に、共産党系の文化運動として、花柳徳兵衛舞踊団等で結構行われたものだが、今はほとんど絶滅した。
それが見られるのは唯一、溝口健二の映画『新・平家物語』で、市川雷蔵の弟になる林成年が、比叡山の坊主と喧嘩する祇園祭りのシーンだろう。
それは、ジャン・リック・ゴダールが「どうやって撮影したのか」と大驚嘆した場面で、大規模な移動撮影の下に、壮大な民族的な歌と踊りが繰り広げられている。
その他、インドネシア・バリ島のケチャそっくりの場面もあり、ここは「いくらなんでもチベットにケチャはないだろう」と思う。
最後、老婆は巡礼の途中で死に、転生して少女になって甦る。
ここは、なぜか少しだけ感動したのは、輪廻転生など信じない私にも、どこかに転生を願う心があるからなのだろうか。
カーテンコールで、ヤン・リーピンがクネクネ踊りを踊ったが、これはまさしくタイ舞踊だった。
これって、一体どういうことなの。
渋谷オーチャード・ホール