ビン・ラディンを射殺したとの報を聞き、最初に思ったのは、「本当にまだ生きていたの」だろう。
1991年の9・11から10年である。
あの日、私は倒れて横浜市滝頭の病院にいた。
朝、起きてテレビを見ると大騒ぎをしている。
本当に、映画の特撮のような世界貿易センター崩壊の映像だった。
だが、当然崩壊するだろうなとも思った。
あそこでニューヨーク港湾局を訪問し、その後中のレストランで食事したのだが、その間中揺れているような脆弱性を感じていたのだからである。
先日書いたようにニューオリンズの最後の夜、当時日本郵船の横浜支店長に誘われてホテルのディナー・ショーに行った。
当時、『ミスター・メロデイー』でスターになっていたナタリー・コールだった。
翌日、飛行機に乗ると、マネジャーと二人で、自分でスーツケースを持って同じ飛行機に乗り込むナタリー・コールがいた。
アメリカのツアーは厳しいのだなと思った。
ニューヨークでは、港湾局の他、当時「テレポート計画」で話題だったスタッテン島に行き、さらに船会社も訪問したなど結構忙しかった。
このテレポートなるものは、結局無意味なことが判明したが、当時は新計画と思われていて、横浜でも大々的に「世界会議」をやった。
だが、開催後、高秀市長に「テレポートって何だ」と聞かれ、担当者が答えに窮したという笑話のみが残っている。
この中で唯一の自由行動で見たのは、ブルーノートでのミスター・ハディホーマン、キャブ・キャロウェイのステージだった。
また、現地の代理店の人が連れて行ってくれた日本人女性がいるクラブで話したのは、フランソワ・トリフォーとオスカー・ウェルナーの死だった。
だが、リチャード・ブローティガンの死はどこの新聞、テレビにも出ていなかった。
世界貿易センターは、ニューヨーク港湾局が建てたもので、当然永く所有していたが、1991年当時は民間の不動産会社に売却していたとのこと。
あの頃から、もう10年も経っているのだ。
ビン・ラディンの名も、当初は皆上手く言えなかった。
映画監督の崔洋一が、「ビン・ディラン」と、ボブ・ディランと混同してラジオで話していたのをよく憶えている。
そのビン・ラディンの名を日本人が知って10年が経ったわけである。
テロとの戦いは、これで収束するのだろうか。