「軍需企業としての東宝」などと言うと、最も都会的、お洒落で、ダサくない映画会社の東宝なので、意外と思われる方も多いだろう。
また、山本薩夫、今井正、宮島義勇ら共産党員も多数いた会社なのに「なぜ」とも思われるかもしれない。
だが、戦前、戦中期に東宝が、日本映画界で最もと言っても良いくらい、明らかに軍需企業だったのは、紛れもない事実なのである。
そのことは、ほとんどの日本映画史には書かれておらず、唯一佐藤忠男の『日本映画史・増補版』に記述されているが、ほとんど知られていない。
比較的ポピュラーな本で、これに触れているのは、堀川弘通の『評伝 黒澤明』のみであろう。
そこには、山本嘉次郎の映画『馬』の一部が、東宝砧撮影所の航空教育資料製作所で撮影されたことが書かれている。
その場所は、戦後は新東宝撮影所となるところで(現在は日大商学部と東京メディア・シティー)、東宝が海軍から用地の払い下げを受け、海軍からの受託映画を作るのを目的に東宝幹部が、合資会社映画科学研究所を新たに設立し、そこがスタジオを建設した。
阿部豊監督の『燃ゆる大空』の一部は、ここで作られたので、同作品は東宝と合資会社映画科学研究所の提携作品になっている。
私が、このことに初めて気づいたのは、阿部豊の『燃ゆる大空』を見たときである。
「写真科学研究所は、PCLだが、この映画科学研究所とは何か」と思った。
それは、実は航空教育資料製作所のことだった。
そこでは、円谷英二を指導者に、軍からの「教材映画」、すなわち兵器の使用法や具体的な戦法を教える映画が多数作られていた。
勿論、アニメーション、模型による特撮、さらに実際の記録映像を駆使し、様々な作品が製作されていた。
うしおそうじの円谷英二伝『夢は大空を駆けめぐる』によれば、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の大戦果のとき、彼は、岐阜の基地で撮影した教材映画『水平爆撃法』と同じ魚雷攻撃が、真珠湾で実行されて驚愕したことが書かれている。
真珠湾攻撃のマニュアル映画を東宝が作っていたのである。
その他、多数の陸海軍発注の作品、さらに三菱重工業、中島飛行機、川崎航空機等の航空機生産企業からの発注による啓蒙映画も作られていた。
それらは、中国や南方での、各社の航空機の実戦での活躍を描くもので、工場の労働者の士気高揚に上映され、一部は一般にも公開された。
この航空教育資料製作所は、佐藤忠男の本によれば、東宝の映画製作能力の大体30%くらいを占めていたそうだ。
だから、東宝の戦時中の戦意高揚映画が、他社の作品に比較して優れていたのは、こうした教材映画の基礎的積み重ねがあったからなのである。
そして、この航空教育資料製作所は、戦後は軍の解散によって、当然に不要・不採算部門となり、即スタッフの整理・首切りになり、それが「来なかったのは軍艦だけ」の東宝の大ストライキの原因となるのである。