1970年代、低迷する松竹大船では、製作本部長の三嶋与四治が、外部から積極的に監督を招聘して作品を作った。
井上梅次、瀬川昌治、渡辺祐介、さらには舛田利雄や加藤泰など。
当時、助監督だった三村晴彦は、驚くべきことに加藤泰の名も知らず、作品も見たこともなかったと言う。松竹の唯我独尊的なダメさがよくわかる。さらに、「東映京都からヤクザ映画の監督が来る」ということだけできわめて不愉快だったそうだ。
だが、チーフ助監督として加藤についたとき、その絵コンテに驚く。
すべてのシーンの絵コンテが、台詞付きで書かれていて、それをスタッフ、キャスト全員にコピーして配った。
役者を集め、シーンを通して稽古をし、演技を完全に固める。
そうやった後に、カット1から順に撮っていく。
その絵コンテは、完璧なものだったが、ところどころに空白があった。
そこについては「どうぞお知恵をお貸しください」という加藤のメッセージがあり、皆がアイディアを出さざるを得ないように仕向けるものであったそうだ。
こうした、監督自身の総てを曝け出して、全員で作って行くという姿勢は、松竹大船にはないものだった。
大船では、伝統的に「名人の芸は盗め」という考え方で、三村晴彦が最初についた渋谷実も、コンテは一切見せなかった。
そのことは、戦前に渋谷実の助監督をやった西河克己も書いている。
渋谷実、さらに原研吉等は、絵コンテを見せず、次に撮るシーンについて話したりせず、「そのぐらいは自分で考えておけ」という方針だったようだ。
さらに西河は、渋谷が言わなかった理由を、監督がその権威を保つ上からも、本当の考えを他人に伺い知れないようにしたのだとも言っていた。
加藤泰のコンテ主義は、多分加藤が戦前にいた東宝砧の伝統から来たもののように思う。
戦前からプロデューサー・システムで、効率性を重んじていた東宝では、多くの監督は絵コンテを立てて、撮影に日々臨んでいたようだ。
ただし、成瀬巳喜男は、他人から絵コンテを見られるのが大嫌いだった。
あるとき、昼休みに成瀬が置き忘れて行った台本の絵コンテを見て、スタッフが午後、その通りに準備すると、成瀬は絵コンテを急に変更して撮影したそうである。
要は、スタッフと馴れ合い作業になるのが嫌だったのだろう。
三村晴彦は、加藤泰の総てを晒して出し、そしてスタッフ、キャスト全員で映画を作るという姿勢には、大きな感銘を受けたそうである。
『宮本武蔵』も、チーフ助監督は三村晴彦であり、『天城越え』等を残したが、彼も死んだ。