こういう芝居を見ると、かつての新劇の俳優術、特に台詞術もバカにならないものだと思う。
6人の女性の内、中村たつ、三田和代、秋山菜津子、魏京子と、それぞれ俳優座(中村)、劇団四季(三田)、演劇集団円(魏)と集団は違うが、所謂新劇に近いところから出ているし、秋山菜津子も初期はケラの劇団健康等のアングラだったが、今ではシス・カンパニーに所属し多くのストレート・プレーに実績を上げている。
彼女たちが、あけすけに語り、話し、議論する、女性の生理的話題をこれほどまでに面白く見せたのは、勿論作者蓬莱竜太のセンスと演出の栗山民也の手腕だが、なによりも女優たちに演技術の上手さである。
ともかく、「閉経」という言葉が、これほど真剣かつ重要な台詞として話されたことは、日本演劇史上初めてのことだと思う。
そのことだけでも、この劇の意義は大きい。
ある田舎町(長崎の近郊であることが途中で分かるが)、夏祭りの夜、旧家藤木家の座敷に東京に行っていた長女ミドリ(秋山菜津子)が戻って来る。
母親の三田和代は、旧家であることから、40を過ぎても結婚しないミドリを心配し、ともかく藤木家の系統を絶やさないために、誰でも良いから早く結婚してくれとミドリに迫る。
だが、ミドリは言う。
「東京の仕事は忙しく、楽しいので、そんな気は全くない。それにこの数ヶ月月経が来ていず、早くも40代前半で閉経したので、妊娠は無理」と言う。
びっくりしている母親のところに、次女のヤンキー娘で、20代で子供を生んで地元で多くの男と付き合っているキョウコ(魏京子)も来る。
さらに長い間行方不明だった娘(前田亜希)も東京からやって来るが、彼女は不倫の果てに妊娠していることが分かる。
最後は、秋山が平生は嫌っていた年下の上司との間で妊娠していたことが分かり、前田が今付き合っている町の男の11歳の連れ子は、初潮を迎える。
そして、精進落としに男たちが神輿から戻って来るところで幕が降りる。
ここで表現されたのは、日本の伝統的な社会、家族は本質的に男性社会ではなく、女性社会であり、特に婚姻や性交に関する文化は母系制によって継承されて来たことである。
なんと外の世界で偉そうな顔をしている男たちの無意味なことか。
2008年に初演され、蓬莱竜太がこの作で岸田戯曲賞を取った傑作の再演であるが、こうした再上演は是非どんどんやってほしいものだと思う。
役者の中では、秋山菜津子が良いのはいつものことだが、中村たつと三田和代の二人の台詞の間がとても上手いのに大変感心した。
新国立劇場