やはり無理は無理 『狙撃』『さらばモスクワ愚連隊』

新文芸坐での堀川弘通監督特集、『狙撃』は見たことがあるが、『さらばモスクワ愚連隊』は見ていなかったので、見に行くことにした。

感想は、1975年にテアトル蒲田で、黒澤の『酔いどれ天使』、谷口千吉の『紅の海』と共に堀川監督の『狙撃』を見たときの、「無理をして似合わないことをやっても駄目だな」で、同じだった。

1960年代後半は、東宝は路線が大変混乱していて、妙に若者にこびたような作品を作っては、その度に失敗していた。

共に1968年に作られたこの2本も同じで、『狙撃』は、脚本が永原秀一であることに見られるように、日活のアクション映画の移入で、部分的には良いところもあるが、なんとも東宝の社風に合っていない感じだった。

今回も、殺し屋の加山雄三とモデルの浅丘ルリ子が、ニューギニアを夢想し、竹邑類振付の奇妙なダンスを踊るところで、完全にシラケた。

日活と比較してしまうが、こういう観念的なシーンは、『殺しの烙印』のように鈴木清順なら、ストップにしてスチールの積み重ねで処理してしまうところだが、リアリズムの東宝、堀川弘通では、シナリオ通りに演じるので、シラケてしまうのである。

『さらばモスクワ愚連隊』も、モスクワの市街を再現したセットは大変豪華だが、どこか中身の薄い作品となっていた。

『さらばモスクワ愚連隊』は、原作の五木寛之はともかく、脚本の田村孟、監督の堀川もジャズには疎いと思うので、誤解の上に建てられた「誤解の塔」のような作品である。

ここでのジャズ観は、1960年代なので仕方ないが、アメリカでの黒人の悲惨な実態がブルースやジャズを作り出したというものである。

勿論、すべてが間違いではないが、1970年代に中村とうようさんが、著書『ブラック・ミュージックとしてのジャズ』で明らかにされたように、ジャズは黒人音楽のある種の上昇志向性に依拠した音楽であり、デューク・エリントンを代表に、黒人社会でも、中産階級から上の階層によって担われてきたものである。

その証拠に、ジャズは時代が進むに従ってアフリカ化しており、時代を遡るときわめて西欧のクラシックに近いものとなっている。

ビリー・ホリデーの『奇妙な果実』が最大の比喩なのだから、「まあ古いな」と思うしかないが、当時はそんなものだったのだろう。

筋書きとしては、五木寛之の他の小説を入れており、原作の『さらばモスクワ愚連隊』の結末とは違っていると思うが、ともかくジャズは、国境を超え、世界をつなぐといわれても、「そうですかね」と言うしかない。

むしろ、今では「ロックは世界をつなぐ」というべきではないかと思う。

この2本は、東宝の歴史で見れば、西村潔の傑作『白昼の襲撃』を作り出したということでは、意義があったと言うべきだろう。

新文芸坐

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コメント

  1. joshua より:

    「誤解の塔」とは…
    正に言い得て妙ですねw。その点では蔵原惟繕の「黒い太陽」と並ぶ作品のような気がします。野際陽子のわざとらしい説明台詞などを今聞くと、昔のジャズ入門書の引き写しそのもので、背中がこそばゆくなりますw。以前は名画座でよくかかったのに、最近はとんとお目にかからなくなったのも仰せの通り、そんな「ひいきの引き倒し」的なジャズの持ち上げ方が現代では受け入れられなくなったせいでしょう。ただ、短いながら事故直前の富樫雅彦の演奏シーンが見られるのと、野際陽子の元祖ミニスカ姿には資料的価値があるかと…。

  2. さすらい日乗 より:

    なんであんなにもジャズに憧れていたのでしょうね
    石原慎太郎から大江健三郎まで、1950年代末の日本では皆、モダンジャズに憧れていましたが、一体なんだったのでしょうね。
    アメリカへの複雑な思い、憧れと反発を上手く昇華してくれる文化だったのでしょうか。
    今、考えるととても不思議ですね。
    アメリカでも、白人の若者やインテリは、ジャズ好きだったのと同じようなものでしょうか。