久しぶりに東横線の都立大学駅に降りた。
この駅に降りるのは、もう20年近く前、母が倒れて老人病院に入院し、数ヶ月間子供たちで手分けして見舞いに行って以来である。
だが、そのずっと前の高校生時代は、よくここに来ていた。東急ストアの中にあったハンターで中古のジャズレコードを漁っていたのである。
柿の木坂には、小さな映画スタジオがあり、篠田正浩の傑作『乾いた花』や大島渚の映画復帰作『悦楽』などは、そこで作られたが、とっくになくなっている。
第一、都立大学自体が多摩地区に移転しており、跡地は公園の他図書館、そしてパーシモン・ホールになっている。
高校の都立大付属高校も名前が変わっていたが、これはどこかと合併したのだと思う。
ホールに、菊池成孔が出るというので、日頃大口を叩いている彼が、どういう演奏をするのか見たくて出かけたのである。
フェスティバル方式なので、4グループが出て、最初はギターの笹子重治に、ヴァイオリンとクラリネットの女性が付いた典型的なショーロの「コーコーヤ」
大変気持ちの良い演奏だったが、次のSaigenjiは、出てきたときから悪い予感したが、本当に最悪だった。
昔、黒澤明監督の映画『トラ、トラ、トラ!』が頓挫したとき、白井佳夫が、「キネマ旬報」の座談会で、黒澤プロのプロデューサーだった青柳哲郎のことを
「戦後すぐ占領軍について来た正体不明の二世通訳のような男」と形容したが、この人間もそんな感じだった。
ともかく内容がなく軽薄な音楽なのには呆れた。
さて、菊池成孔は、彼のサックスの他、伊藤ごローのギター、布施尚美のボーカルによるボサノヴァで、完全に『ゲッツ・ジルベルト』
思い出せば、『ゲッツ・ジルベルト』も、都立大駅にあったハンターで買ったことを思い出した。都立大の他、銀座、大井町等に出店し、大々的に営業していたハンターは、10年ぐらい前に倒産した。
さて、菊池の演奏は、こういうのもやるのかと思ったが、日頃大口を叩くだけあり、さすがに良かった。
その後に、ショーロ・クラブが出たのだが、タクシーで武蔵小山に行く。
都立小山台高校18回生同期会があったのだ。
全体の同期会は、すでに3時から始まっていて、それには間に合わなかったので、A組の二次会に行く。
男12名 女8名の20人。
勿論、ほとんど出来上がっていたが、最後の約1時間半を共にする。
名簿を見ると、A組は、死んだのは2人だけで、転居先不明の者もいない。
だが、他のクラス(A組からL組までの12クラスもあったのだが)、死んだ者、転居先不明の者はかなり多く、各クラスで大体5人以上はいる。
もう64,65歳なのだから当然だろうが。
この小山台高校は、理科系のきわめて真面目な進学校で、文化、芸術には無縁な人間ばかりで、個人的には全く馴染めなかった。
だが、私にとっては演劇を始めた学校であり、日頃の言動が生意気だったせいか、教師には逆に大人扱いをされたことは意外に楽しい思い出として残っている。
コメント
都立大附属と小山台
今回の記事を見て、さすらい日乗様も都立高出身だったのだと知りました。小山台の文科としては、フランス文学の海老坂武さんがいますね。岩波から出ている長い(高い)戦後回想録に、野球少年だった思い出が語られています。
都立大附属高校は合併したのではなく、都教委の政策で10校作られた「公立中高一貫校」になっています。校名が継続した学校の方が多いのですが、ここは都立大自体もなくされた(改編された)ため、独自の校名にされ「桜修館中等学校」になりました。2006年開校だったと思います。この名前は古い藩校みたいで違和感があるという同窓生も多かったように思います。
都立中高一貫校は、教科書を都教委が選ぶため、すべて「新しい教科書をつくる会」教科書(当時は扶桑社)が採択されました。(現在は育鵬社。)これが狙いではないかと僕は思ってます。同窓生として教科書問題を考える会があって、「とりつ おせっ会」という名前で活動しています。僕は春に招かれてお話をする機会がありました。http://www.osekkai.net/
ありがとうございます
海老坂武らは高校野球東京都大会で決勝戦まで行き、慶応に負けました。当時慶應は三田にあり、今の横浜の日吉ではなかったわけで、これは都立国立が甲子園に出るまで都立高校の記録でした。
小山台の文系では、私は嫌いだった筑紫哲也もそうで、他に映画監督の渡辺裕介などもいますが、文化勲章の山田洋次も1年だけいたそうです。
桜修館なんて変な名前ですが、これも石原都政の置き土産なのでしょうか、柿の木坂校の方が良かったと思いますが。
こんなところで
都立大付属の名前を目にするとは!?実は自分も同校出身です。
授業をさぼっては駅すぐ先のストリップ劇場富士館(子供の頃新東宝の映画を見た覚えあり)の隣にあった喫茶店に集まって、ガード反対側のビリヤードや高架下の麻雀荘で時間をつぶしていた日々を思い出します。
あとは、高二の秋休み(当時から二学期制だった)に谷川岳で遭難事件を起こし、NHKのテロップで死亡通知が流れたことでしょうか。
戸山高校山岳部が穂高で遭難事故を起こして高校生の冬山禁止通達が出て以来、自分のおかげでロッククライミング禁止となったことは今でも少々申し訳なく思ってます。