ソチ・オリンピック、女子フィギュア・スケートで浅田真央選手は、ショート・プログラムのミスで、メダルは取れず6位入賞になった。
その理由を、演技論的に考えてみたい。
演劇評論家の渡辺保さんがよく書いておられるが、日本の演劇、特に伝統的な演劇では、その演技術を「心か、型か」で考えている。
歌舞伎等では多くは型で、演技は外部から見て、その役柄らしい型、そう見えれば良いということになり、その時の演者の心はどうでもよくなる。
それに対して西欧の近代劇では、役者の内部的心理が、その役のものになっていることが必要とされ、その典型がロシアのスタニスラフスキー・システムやアメリカのアクターズ・スタジオである。
この「心と型」の違いを、ロック歌手でみれば、ブルース・スプリングスティーンは、心で歌い上げる歌手であり、ミック・ジャガーは型で表現するロッカーだと思う。
日本では歌舞伎は伝統的に型で演技してきた。
だが、それに対して心を対置したのが、六代目尾上菊五郎で、彼に影響を受けた者は多く、歌舞伎のみならず、映画の勝新太郎にまで及んでいる。
日本映画でも、型の演技を付ける監督は多く、マキノ雅弘や伊藤大輔らが典型である。
「2歩歩いて、そこで止まって振り向いて、視線はここ」というような演技指導で、ほとんど踊り、振付のような芝居になるが、それでそれらしく見れるのだから凄い。
さて、フィギュアスケートの選手にも、この「心と型」が適用できると思う。
浅田真央は、ジャンプ、ジャンプと言われるが、多分その本質は、心で滑る選手だと思う。
韓国のキム・ヨナ選手も同じタイプのようで、今回優勝したロシアのソトニコワ選手などは、明らかに型で滑っているように見える。
どちらが良いかという問題ではなく、選手のタイプの違いである。
ただ、心で滑る選手は、その演技に上手く入って行けるかが非常に問題で、上手く出来た時(浅田真央の今日のフリーのように)は、その世界に見るものを引き込むことができ、大いな感動を与える。
たが、逆に上手くその世界に入れなかった(昨日のショート・プログラムのような際は)、演技が型で守られていないので、結果はボロボロになってしまうのである。
終了後の浅田真央選手インタビューでは、曖昧だったが、どうやら次のオリンピックにもは出るように見えた。
この次は、ショート・プログラムの時も、上手く世界に入って素晴らしい演技を見せてもらいたと思う。