1976年、人気絶頂の桜田淳子の主演映画、脚本が大ベテランの八木保太郎、監督は中村登と、こんなおじさん達がよくもアイドル映画を作るなと思った。
話は、難病もので、偶然に東京の町で知り合った桜田淳子の恋人で画家の卵の田中健が、白血病であることがわかる。
日本には明治時代の『不如帰』から難病もののジャンルがあり、映画でもサイレント時代から多数作られ、中でも最大のヒットは『愛と死を見つめて』である。
この吉永小百合・浜田光夫主演の『愛と死を見つめて』は、テレビの大空真弓・山本学の大ヒットを受けた日活作品で、当時25億円の大ヒットだった。
この時の監督は、小林旭の「渡り鳥シリーズ」の監督の斎藤武市だったが、脚本は八木保太郎だった。
だから、この桜田淳子の難病もののシナリオも、八木保太郎に依頼したのだろう。
おじさんたちがよくやるなという気もするが結構きちんとできている。
監督の中村登は、インテリで教養人の多い松竹の監督では、そうした性向のない普通の人で、その分大船のスタッフからは軽蔑されてい。
だが、逆にそのために最後まで長持ちしたというのが、西河克己の説である。
また、桜田淳子も田中健も新人なので、桜田の母は市原悦子、田中健の父は木村功、医者は長門裕之、婦長は吉行和子とベテランを配役している。
話は、突然白血病になり、「残り1年の命」と長門から宣告された田中健と桜田淳子の恋物語。
この題名『遺書・白い少女』と聞いて、普通に考えれば桜田淳子が死ぬと思うだろう。
だが、物語はそうではなく、死ぬのは田中健で、彼が描く油絵が桜田の白い少女姿なのであるとは、驚いた。
この映画で一番疑問に思ったのは、二人は果たしてセックスをしていたのかで、
正月の一時退院で、家に戻った田中が「ベッドで思っていたことは、もう一度君をだくこと」と言い、暗示される。
だが、次のシーンは翌朝で桜田が「薬のためよ」と慰めていて、性交不能だったようなのだ。
この辺が松竹的な曖昧さで、ポルノを堂々と作っていた日活との違いである。
ソニーのプロデューサーだった酒井利正によれば、「山口百恵、森昌子らのアイドルの中で一番完成されていたのが桜田淳子だ」と言っていた。
確かにこの映画の中でも桜田淳子の芝居の上手さは大変なもので、病名を最初に長門から告げられた時の桜田の怒りの表現は大したものである。
その意味では、若くしての結婚引退は誠に残念なことである。
衛星劇場