桂小金治が亡くなったが、彼の番組『アフターヌーン・ショー』にガヤとして出たことがある。
1967年、大学2年の秋、ある日劇団の部室に行くと、制作が「テレビに出て劇団に金を入れるから行こう」と言い、当時六本木にあったNETテレビに行った。今のテレビ朝日である。
多分、早稲田周辺で学生をエキストラとして配っていた宮原某の手配だったと思う、中にはすぐに藤田敏八とでき、今は原田眞人と結婚している福田みずほもいたと思う。
控室からスタジオに入ると石原慎太郎がいて、タイトルは「慎太郎対全学連」だった。
当時、彼は突然参議院全国区から自民党で出てトップ当選した時で、「体制内変革」を標榜していた。
こちらは、10人くらいで、何人かが発言した。
私は、「体制内変革というのは、パブロ派の加入戦術にみたいなもので、所詮失敗する」と言った。
すると男性司会者が「悪口はよしましょうね」と遮った。
その後2,3の応酬があり、15分くらいであっけなく終わった。
このパブロ派というのは、欧州のトロツキストの一派で、加入戦術として、各国の共産党を離れ、社会民主党に参加して活動していた。
日本でも、第4インターの連中が、日本社会党に加盟していたが、彼らは1970年代中頃に、社会党からたたき出される。
所詮は、組織ではどこでも主流派にならない限り駄目で、なにもできない。
さて、石原慎太郎だが、自民党の変革は、彼に誰も付いて来ないのでできなかった。
彼のように「自分が一番偉い」と思っている人間は自民党では一番嫌われるタイプで、竹下登のような低姿勢の政治家が、党首になるのである。
これは、議員内閣制のためで、もし石原慎太郎がアメリカに生まれていれば、大統領になれたのかもしれない。
その意味で、大統領の都知事は最適だったはずだが、民主党敗北が予測された2012年の総選挙で、わざわざ都知事を辞めて衆議院に出た。
これは、自民が勝っても単独過半数が無理なことが予想されたためで、そうなると日本維新の会との連立になり、そうすれば一度首相をやっている安倍晋三に、
「今度は先に俺にやらせろ」と言って首相になれる可能性があったからだ。
だが、自民党が勝ちすぎたため、余計な党との連立は不要になり、公明との連立継続で、石原慎太郎の最後の夢は消えた。
自民党内での「体制内変革」は失敗で、40年前の私の批判が当たっていたことになる。どうでも良いことだが。