齋藤次郎について書いたので、斎藤芳朗氏についても書いておく。
この人は、戦前から松竹の宣伝部にいて、桑野通子をスカウトしてきて女優にした。そして、当時は秘密だったが、彼女と結婚した。
桑野通子は、松竹にはほとんどいないモダンな女優だったが、戦後すぐに亡くなってしまったのは、松竹のみならず日本映画界にとって、大きな損失だったと思う。
彼女の遺子が桑野みゆきであることは誰でも知っているだろう。
桑野みゆきも、若手女優が不足していた当時の松竹で大活躍したが、父は「クワ・パパ」と言われ、鰐淵晴子のお母さんの「ワニ・ママ」と並び二代ステージ・パパだっだと大島渚が書いている。
桑野みゆきが、結婚して引退した後、斎藤芳朗氏は、製作に転向したようで、かなりのヒット作を作っている。
ヒット作と言うのは、安藤昇主演の作品である。これは、大船で撮影しているのに、CAGという別会社の製作になっていて、斎藤氏が代表としてクレジットされている。
- 1965.09.30 やさぐれの掟 CAG
- 1965.11.20 逃亡と掟 CAG
- 1966.02.19 顔を貸せ CAG
- 1966.05.14 東京無宿 CAG
- 1966.10.15 阿片台地 地獄部隊突撃せよ ゴールデンぷろ
- 1967.02.11 白昼の惨殺 ゴールデンぷろ
これは、一説では、城戸四郎社長が勲章が欲しくて、誰かが「ヤクザ映画などを作っていると勲章がもらえませんよ」と言われたので、大船で作ったが別会社名になっていると言うのだ。
本当かね、と思うが、経営者と言うのも孤独なものなので、そう信じたのだろう。
この中では、『白昼の惨殺』と言うのが興味深く、横浜の話で、今はもうない金沢の横浜航空隊のレンガ造りの建物が廃墟として出てくる。
これは、横浜航空隊の映像としては、数少ないものだと思う。
桑野みゆきが、引退後二度と出てこないことについて、大島渚は、「彼女は家のために女優をしていたので、引退後は二度と出てこない、それは山口百恵と同じだ」と書いていたが、そうだと思う。