『映画プロデューサー風雲録』 升本喜年(草思社)

松竹のプロデューサーだった升本喜年氏の回想記で、1954年まさに松竹が映画『君の名は』の大ヒットで最高の時にプロデューサーとして入社した彼は、最後松竹映像取締役で退任するまで、主に大船撮影所で製作の仕事に当たる。

ただし、松竹は言うまでもなくディレクターシステム、監督中心主義なので、プロデューサーの権限はそう強いものではなく、監督中心にことが進んでいく。

松竹で本来の意味でのプロデューサーというべきは、城戸四郎ただ一人で、升本氏や他の企画部の製作者は、言ってみれば城戸四郎プロデューサーの補佐役のようなものであり、その実態がよくわかる。

様々な監督、製作者、俳優が出てくるが、一番興味深いのは、渋谷実とのことで、1964年に小津安二郎が野田高梧と原案を練っていて死んでしまった脚本『大根と人参』を映画化する件が非常に面白い。

その中で、渋谷実の実像が描かれ、「渋爺」、「いじわる爺さん」と呼ばれ、自分勝手で孤独で、しかし大変な勉強家で、好奇心が強く、戦後も多くの秀作を作xっていた。

それは、大船撮影所のみならず、松竹本社でも小津安二郎に次ぐ巨匠として尊敬されていたというのは、少々意外な気がした。

私も独特のブラック・ユーモアのある渋谷実作品は好きなのだが、当時松竹内部にも心酔者がいたとは初めて聞いたからだ。

映画『大根と人参』ができるまでの、渋谷実と城戸四郎との戦いは大変面白い。

渋谷が映画の準備に入ったとき、ある日築地の松竹会館の社長室に渋谷が呼ばれて入った。すると城戸四郎は、

「おっ、渋谷君、まだ生きていたのかね」

すると渋谷は、

「墓場に近いのはぼくより城戸さんでしょう」と切り返したそうだ。

城戸四郎は大変辛辣な皮肉屋で、小津安二郎のローアングルを

「また、女の股ぐらを覗いているアングルか」と言ったくらいだから。

要は、一種の江戸っ子の照れで、わざと偽悪的な物言いをして相手を観察しているのである。

この『大根と人参』の時、松竹、つまり城戸四郎は、前作の『モンローのような女』がひどかったので、渋谷を首にしたかったのだが、契約が1本あったので、仕方なく製作を認めたのである。

キャストだけは小津安二郎縁の役者で豪華だったが、私も昔見たがどのような映画だったか、すぐに思い出せないほど印象の薄い映画で、この直後彼は松竹を解雇される。

三嶋予四治映画製作本部長の時代、所謂「三嶋軍団」の時代、日活、大映の高橋英樹、渡哲也、田宮二郎を起用しての男性映画、大作路線と喜劇路線が車の両輪で稼働していた頃の松竹は、少しだけ活気があったと思う。

それも、1980年に三嶋本部長が更迭されたことで終了してしまう。

日頃から渋谷実が好きで、しかしその割に彼の評価が低いのはなぜか疑問に思っていた。

それは渋谷が大変に非社交的で、子分も作らず、親分風も吹かせず、また助監督以下のスタッフの面倒を見る、と言った世俗的なことを一切しなかったことも理由だと分かったのは、大きな収穫だった。

映画監督といえども、会社の一構成員なのだから、組織の中で生きる作法を身につけていなければ生きられないのである。

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