1950年代末、日本映画界でドキュメンタリーへの理解も関心も極めて薄かったことを冒頭の土本典生、黒木和雄との座談会で、佐藤忠男が述べている。「ただ、岩波映画というところでは、普通とは違う実験的なものを作っているらしいぞ」と聞こえてきていたとのこと。
そこで、当時の土本典生監督の『海に築く製鉄所』や、黒木和雄の『恋の羊が海いっぱい』の断片が挿入される。黒木和雄の『恋の羊が夢いっぱい』も当時有名な作品だったが、もちろんその頃は見られず、これも2007年の黒木特集で初めて見たが、斬新なミュージカルだった。
そして、土本もSL記録の名作と言われる『ある機関助手』を作るが、その頃から岩波映画にいることの限界を知って独立してしまう。カメラマンの大津幸四郎や、まだ助監督だった小川伸介たちも岩波を出たが、無名だったので大変だったが、シンガポールからの留学生のものや高崎経済大学の『圧殺の森』によって次第に新左翼運動に同伴するようになり、通常ではないルートの大学内で上映されて次第に著名になっていく。それは土本にとっては『水俣・患者さんその世界』、小川と大津幸四郎にとっては、『圧殺の森』での体験から、それまでの一応は脚本どおりに撮影してく従来の撮影法から、その時々にまさに変化、生起していることを撮る方法に転換する。そして、『パルチザン前史』 ここには横浜市幹部だったK氏も出ているのだが、私は当時も今も滝田修という人物に懐疑的だった。その際たるものが、作品のラストで、5人組が海で筏のようなものの労働作業を共同でしているところで、「インチキ臭いな」と見た時思ったが、これは監督の土本の演出だったのだそうだ。土本の滝田への思い入れ、願望だったのだろう。水俣と三里塚の運動へのそれぞれの係わり方も、いろいろでなかなか興味深かった。横浜シネマリン