長与善郎の小説の映画化で、脚本は斎藤良輔、監督は渋谷実である。この映画は、以前に映画館で見たことがあるが、フィルムの状態が悪く落ち着いて見られず、面白いと思わなかった。
だが、今回見てあらためて渋谷実の実力を感じた。というのも、江戸時代のキリスト教信者の迫害、弾圧という重い「思想的な」作品を娯楽映画として面白く見せていることである。
江戸時代の初期、九州では隠れキリシタン狩りが進行し、奉行所では住民に踏絵を強制させている。
奉行所の中では、ポルトガル人の宣教師滝澤修への拷問が行われていて、役人の三井弘次が石を抱かせたりしているが、なかなか滝澤は棄教しない。
村には、鋳物師の若者岡田英治がいて、信者の香川京子と恋仲だが、岡田は信者ではなく良い鋳物を作ることが彼の願いである。
香川は弟の石浜朗らと共に強く信仰に向かっていて、彼らは秘密の部屋で信仰を続けている。
滝澤はついに転向し、邸宅に住み、遊郭にも連れて行かれ、遊女の山田五十鈴とも交情を重ねる。そして、三井は「もっと良い踏絵ができないか」と彼に聞く。紙の踏絵はすぐにボロボロになって効果が薄れてしまうからだ。
滝澤は、「青銅で作れば良いが、日本にはできる者はいないだろう」と言う。
三井は、絵師で鋳物の仲介人でもある信欣三を通じて、岡田に青銅のキリスト像を作らせる。
岡田は、見事な青銅のキリストを作りあげ、香川にも見せ、喜びを共有する。
そして、降誕祭、つまりクリスマスの集いが秘密の部屋で行われ、天草から長老の薄田研二も来た時、役人が来て信者は捕縛される。
石浜は、仲間に裏切者がいたのだと前から思っていたが、実は元宣教師の滝澤が裏切り者だったのだ。この辺は、戦前の日本共産党の「スパイM」を思わせる。
山形勲の長崎奉行の前で、岡田の作った青銅のキリストで、踏絵が行われるが、信仰強固な人々は、皆踏まない。
面白いのは山田五十鈴で、今は信者ではないのだが、母は信者であると言い、青銅を踏まず、磔にされる。要はシンパと言うことなのだろうが、長与や渋谷に、共産党の転向の問題への意識があったのだろうかは、よく分からないが。
石浜朗、毛利菊枝、香川京子、薄田研二、伊達信らが次々と磔になり、下から火で焼かれる。
その残虐な場面を一人、スケッチしている絵師の信欣三。
この辺は、芥川竜之介の『地獄変』のような芸術至上主義とよく似ているが、今日から見るとやや滑稽であるが。
渋谷実は、ブラックユーモアの味わいと同時に女性への皮肉な見方が強いが、ここでも香川京子については、よく出ているように思う。
音楽は黛敏郎で、当時のキリスト教的音楽を使っているようだ。
衛星劇場