太秦中学だった

先週は、日本映画学会11回大会に出るために京都に行ったが、金曜日は嵐電に乗って帷子の辻に行き、大映通商店街を歩いて、大映京都撮影所跡に行った。

大映通り商店街には、大魔神様が立っておられた。

             

大映京都撮影所跡は今は、府立太秦中学になっていて、記念碑だけがあった。

             

戻って、帷子の辻駅のすぐ先の路地の奥にに行くと、松竹京都撮影所があった。

ここは火災で焼失したり、営業不振から何度も閉鎖されたり、会社が変わったりしているが、テレビの「必殺シリーズ」などでしぶとく生き残り、今は松竹系の唯一のスタジオになっている。

             

松竹京都撮影所は、1960年代には、非効率的でヒット作もないとのことで閉鎖され、スタッフも大船撮影所に配置転換された。

今もご健在な森崎東監督などがそうである。

当時、最大のヒット映画は、伴淳の喜劇と高田浩吉の時代劇で、時代と大きくずれていたのだから当然だったのだが。

また、彼らは娯楽作品作りに慣れていたため、お上品な大船作品とは根本的に違ったので、意外にも酒井欣也監督などは、娯楽作品でよく使われることになる。それも1970年代後半以降になると、三嶋軍団の大作主義の中で消えていくことになるのだが。

そして、テレビの「必殺シリーズ」で京都撮影所は生き残り、逆に大船撮影所は完全に閉鎖になるのだから、非常に皮肉なものである。

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