裕仁皇太子(昭和天皇)は、1921年、20歳(3月に出発したのでの厳密には19歳だが)の時に欧州各国を訪問した。
それを大阪毎日新聞、松竹、日活、さらに欧州部分はゴーモンなどが撮影し、次々とニュース映画、さらに特集映画として上映された。
今回復元されたのは、主に松竹とゴーモンによるもので、東宮御所の出発から横浜港新興ふ頭からの香取号での出発。沖縄、香港、シンガポールを経てイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリア等で、9月に帰国した。帰国後は、京都の上加茂神社、石清水八幡宮に帰国報告を行っている。
訪問地は、第一次世界大戦が終わった直後なので、戦跡や平和館なども訪問している。
魚釣りやゴルフもあり、結構皇太子は楽しんだようで、戦後の天皇の会見の時に、この訪欧の時が一番楽しい時だったと言っている。
勿論、当時はサイレントだったが、その時々の皇太子の様子は映像で、日本国内で上映され大変な人気となった。特に夏季には、野外の会場(浜寺海水浴場など)で大スクリーンを特設し、新聞社などが映画会を行った。
我々には、1960年代までは夏休み期間などで、学校の校庭や神社等で野外映画会の記憶があるが、こうした「公共上映」の嚆矢は、この時の皇太子の訪欧映画の上映だったと言えるのではないか。
解説の紙屋さんによれば、皇太子がイギリスのマンチェスター運河で、映画撮影機を自らクランクを廻して撮影したことは映画界にとっても大きな意義があった。カメラはパルボで、日活のカメラマンは、パルボの優秀性を雑誌に言う程だった。
この訪欧事業は、映画のみならず、本、絵葉書、雑誌等として多く出された。
それは、裕仁皇太子への日本全体の期待の大きさを現していると思う。
大正天皇については、明治末に池上に競馬場ができ、後の大正天皇の嘉仁皇太子が来た時、池上小の校長の息子が歓迎の挨拶を述べた。その時、皇太子から頭を撫でられたので、その後その子は馬鹿になってしまったと私の叔母はいつも言っていた。無知な庶民からもバカにされるように大正天皇の能力は疑われていたのである。
確かに、少々能力に問題があるとされた大正天皇に比べ、昭和天皇はあらゆる分野で能力が高かったようだ。
そのことを戦争中の末期には、逆恨みするような近衛文麿の批判もあったくらいなのだから。
フィルムセンター