墨田区千歳にある渡辺信夫さんがやっている個人図書館「眺花亭」で、月1回行われている映画会、今回は記録映画で熊谷博子監督の『三池』
日本一の炭鉱だった三井三池炭鉱についてのドキュメントである。
江戸時代から露天掘り等で細々と行われていた石炭堀りは、明治期になり国営を経て三井に払い下げられ、三井の團琢磨らによって近代的、大規模な鉱山開発、選炭、出炭のための港湾施設建設が行われる。私が横浜市港湾局にいたときも、全国の港湾は地方自治体の管理だったが、三井三池だけは三井の管理運営の港だった。
今も残る立坑に降りるための施設の大型エレベーターは大規模で最先端の設備だった。
戦中から戦後、政府は戦争遂行、さらに戦後経済復興へ向けて増産を促進する。
その間に、朝鮮さらには中国からの労働者の移入が行われる。理由は、もちろん日本人男性は戦争に総徴兵されて不足していたからである。
特に中国人については、給与がきちんと払われなかった実態もあるようだ。
そして1950年代末のエネルギー革命で、石炭から石油へと経済の構造変化が行われ、三井三池もその大波に見舞われる。
1960年の三井三池の大闘争である。「総資本対総労働」と言われた争議は、ストライキ、ロックアウト、第二組合の結成で、最終的には組合側の敗北になる。
組合側では、向坂学校と言われた九州大学教授向坂逸郎が現地に来て行った指導が有名だが、一人の主婦は、「先生は現地で教科書の実習をしたかもしれないが、私たちには無縁で一度も出なかった」と厳しいが、正しいだろう。
大学教授が、現地で労働争議の指導に当たるのは、インテリとしての良心の証にはなっただろうが、標本となった人間たちには無関係である。
第一組合、第二組合の労組員、主婦らへのインタビューも豊富で、大変に興味深い。
また、1963年の炭塵爆発事故は、死者とともにCO2中毒者を出しており、様々な障害を持つ人間を生んでいる。
中では、手の指のマヒで、影絵の狐をできない人がいる。私も2001年に脳梗塞で倒れたとき、左手の指が動かず、最初の頃にやらせられたのが、この狐の小指と人差し指を立て、中指と薬指を付けて親指に合わせるという仕草だった。
中では、主婦の組織が作られ、それが三井三池の強さと言われたが、現実は逆で、ストで給与がなくなると、「明日の生活はどうするの?」との妻の声でストライキは敗北したというのは、鋭い指摘である。
処々に映像が挿入されるが、協力は電通テックで、昔の電通映画社が作った石炭企業のPR映画だと思う。