完全な改悪だ

一昨日見た『写楽考』の矢代静一の戯曲を読む。
鈴木秀勝の構成・演出は完全な改悪であることを確認した。

矢代の原作は3時間以上で長いとのことで、今回鈴木は随分カットしている。
だが、矢代の戯曲は、案内人の他、ロシアの映画監督エイゼンシュテインに至るまで、様々な人間の証言をブレヒト的手法で表現する他、1960年代のアングラ的な趣向を取り入れ、写楽を立体的に表現し、とても楽しく面白い。
彼を偉い人ではなく、普通の若者としている。
さらに、写楽(堤真一)、歌麿(長塚圭一)、お米(七瀬なつみ)、十返者一九(高橋克実)、お加代(キムラ緑子)など主人公たちの独白や逆説が浮かび上がるように出来ている。

だが、主人公たちのみにしてしまった鈴木演出は、周りのものがなくなったため骨組みだけで、ドラマがどこにも存在せず、残ったのはモノローグのみで面白くもなにもないものになっていた。
原作どおりやれば、3時間近くなるだろうが、とても洒落たものなので長さは感じず、観客は誰も文句は言わないだろう。
鈴木演出は、2時間少しだったが、とても長く感じたし、またアンコールも出ないできだった。
堤真一、七瀬なつみなど、役者はよくやっていると思う。長塚圭一は感心できなかったが、これも演出の問題だろう。

鈴木秀勝は、2年前のパルコ劇場の『ドレッサー』、あるいは新国立劇場の『胎内』もひどいものだったが、こんな奴を使う方がどうかしている。
迷惑なのは観客である。

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コメント

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