1995年3月20日の午後、私は銀座にいた。
十五代目片岡仁左衛門の襲名披露公演『道明寺』を見ていたのだ。
『道明寺』は、『菅原伝授手習鏡』の一幕だが、菅原道真が木像と入れ替わって追っ手から逃げる幻想的な狂言である。
夕方近く、歌舞伎座を出ると、街頭のテレビが大騒ぎをしていた。
オオムの「地下鉄サリン」事件だが、まだ事件とも、事故ともはっきりと報じてはいなかった。家に戻ると、ABCテレビが「like a science fiction film」と言った防護服の男が、地下ホームを消毒していた。
野田秀樹の新作は、オオム真理教をヒントにしている。
全体は、失踪した弟を探すマドロミの宮沢りえが中心で、その演技が素晴らしい。
町の書道教室の家元古田新太が、海外旅行から戻ってくると、ギリシャ神話の人名を弟子たちに付ける。
漢字を使ったナンセンスな笑いは、いつもの野田秀樹。
笑いとシリアスな場面の交錯の中で、宮沢の陶酔的な自己告白が挿入される。
この陶酔感は、芝居にしかないもので、野田は唐十郎の正統的な後継者である。
焼肉好きで、いい加減さそのものの家元は古田新太で、適役。
その世迷言に右往左往する橋爪功以下の弟子の自己保身は、次第に破局に向かう。
サリン入りのビニール袋をビニール傘で破るという「最終戦争」の武器のこのちゃちさは大いに皮肉で、この集団の無意味さを象徴している。
宮沢りえの台詞の陶酔感を見るだけでも価値がある。
だが、いつ野田の芝居を見ても、「面白いし、すごいが、それで結局なんなの」と聞きたくなるのは、野暮というものだろうか。
鈴木忠志ではないが、「芝居は本質的に役者を見せるものであり」、その意味では宮沢りえの台詞に陶酔できれば、それ以外に一体何の文句があるの、と言うべきなのだから。
東京芸術劇場