浅利慶太、死去

劇団四季を作った浅利慶太が亡くなったそうだ、85歳。

私は、彼が嫌いなので、劇団四季の芝居をそう多く見ているわけではないが、彼は大変に優れた経営者、指導者であるが、優れた演出家とは言えないと思う。

1984年に妻と日生劇場でのミュージカル『日曜はだめよ』を見たとき、演劇に全くの素人の彼女は言った、

「なんてつまらないの、蜷川幸雄はよくわからないところもあるが、それでも面白いし見せる。だが、これは全く面白くない!」たぶん正直な感想だったと思う。

私も、1974年に日生劇場で『ウエスト・サイド物語』を見た時のことを思い出す。トニーは四季の鹿賀武史だったが、相手役のマリアは雪村いずみ、アニータに至っては、日劇の立川真理だった。要は、当時、歌、踊り、芝居のできる役者は劇団四季はもちろん、日本中にろくにいなかったのだ。いくら何でも37歳の雪村いずみを、10代の少女役にするのは無理で、見ていて鹿賀がかわいそうになった。

その後、浅利は、劇団内でミュージカル俳優を訓練すると共に、オーディションで配役を決めるようになる。もともと四季は、ジロドー、アヌイのフランスの現代劇をやる劇団で、ミュージカルとは無縁だったからだ。

浅利について思うのは、彼は早稲田小劇場、現SCOTの代表の鈴木忠志と同様に、俳優の訓練家であって演出家ではないと思えるのだ。

鈴木の劇も大変に面白くないもので、見た人は「これは何?」と思うに違いない。だが、それは当然で、鈴木は役者の肉体を訓練することにしか興味はなく、特定のテーマや娯楽性を伝えたいと思っていないからだ。あえて言うなら、彼は役者の演技の中にドラマを見ろと言っているのだが、誰がそんなことを思うだろうか。野球で言えば、試合の勝敗ではなく、打者や投手のフォームが良いか悪いかを問題にする指導者なのだ。

一方、浅利についていうなら、「四季式発声法」と言われるように、彼に興味があるのは役者が朗々と台詞を謳いあげることにあると言えるだろう。彼も、芝居のテーマや中身には大して興味がないように私には思える。だからこそ、ジロドー、アヌイのフランス現代劇から、180度異なるアメリカのミュージカルに容易に移行できたのだと思う。

そして、2005年に上演された加藤道夫作の『思ひ出を売る男』を思い出す。そのことを次のように書いた。

この劇は、劇作家で日下や浅利慶太らの高校の先生でもあった加藤道夫の作で、1953年に自死する加藤が2年前に書いた傑作h戯曲である。日下武史は、劇の人物ではなく、冒頭に出てきて、加藤道夫の思い出などを極めて淡々と語った。だが、私には劇よりもはるかに感動したものである。彼ら、後に劇団四季を作る日下ら若者たちへの加藤道夫の指導、思い出を静かに尊敬を込めて語ったのだ。劇は、戦後の荒廃した都市の裏町に、音楽で思い出を蘇らせる男が主人公。彼が手廻しオルガンやサキソフォンで蘇らせるのは、戦後の社会で傷ついた男・女とアメリカ人兵士。彼らは、みな戦争で心に傷を負っているのだが、ここで私が強く感じたのは、加藤道夫ら1910年代生まれの世代(中村真一郎、福永武彦、堀田善衛、さらに黒田三郎、中桐雅夫、加藤周一ら)にとって、戦前の昭和初期が「幸福な黄金時代」として記憶されていたことである。「ああそうだったんだな」と思い、普通よく言われるように戦前は軍国主義の暗い時代ではなかったことを再認識したのだ。

ちなみに、この加藤の名作は、唐十郎の作劇法に影響を与えているなど、1960年代のアンダーグラウンド劇にも影響を与えていると私は考えているのだ。

浅利には、1950年代は、自分たちの前世代への共感があったのだが、どの辺からなくなったのだろうか。

優れた劇団経営者だった浅利慶太の冥福を祈る。

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