先月、古石場文化センターで、全国小津安二郎ネットワークの総会が開催され、昨年の事業報告、今年度の事業計画等が議決され、佐藤忠男先生の講演も行われた。
そして、6月28日付けで、「ニュースレター104号」が発行されたが、私の原稿も掲載されていた。
『村上さんが家に来たことがある』で、村上茂子さんが1961年の夏頃、池上の我が家に来たことを書いたものであるものである。
村上さんは、小津安二郎の私生活を知っている人ならよくご存じの方で、戦後の小津安二郎と厚情を交わされて女性である。映画『東京物語』で、倉敷から上京してきた笠智衆と東山千枝子夫婦は、杉村春子と山村聰の子供たちから追われるように熱海の旅館に行く。
だが、そこは団体旅行の場で、騒ぎがすごく、また外ではギターとアコーディオンの流しの歌手が『湯の町エレジー』を歌っていて、夫婦は結局よく寝られない。この時、アコーディオンを弾いていたのが、松竹大船楽団の村上茂子さんだった。
戦前の小津の愛人としては、川崎長太郎と争い、小説で暴露された小田原の芸者森栄が有名だが、彼女は某経済評論家に身受けされ築地に料亭を出していた。戦後の小津の相手が村上茂子で、彼女は近所に住んでいた女優桜むつ子の紹介で大船で働くことになったのだそうだ。
なぜ、家に彼女が来たかと言えば、スキー帰りの列車で知合った、9歳上で当時大学生だった私の兄が、彼女の重いアコーディオンの楽器持ちのアルバイトで撮影所に出入りしたからで、夏休みに我が家に遊びに来たのである。
当時、中学生の私にとって、彼女は当然にきれいな洋装の叔母さんだったが、サングラスの奥にある種の威厳を感じたのをよく憶えている。
私にはそれだけの体験だったが、あの方は、と思ったのは、『全日記小津安二郎』を読んだときに、しばしば「村上、肉を持ってくる」とし、スキヤキを食べた等に、村上さんの名があり、これは何だと思ったからだ。
すぐに兄に聞いたが、当時兄は「自分はまだ子供だったので、村上さんと小津監督がそうした仲だったとは一切気づかなかった」とのこと。
1960年代初頭の大学生はそんなものだったと思う。
兄の最大の自慢は、大船撮影所に出入りしていた時、あるプロデューサーから「役者にならないか」と言われたとき、即座に村上さんから「この人は良い家の生まれだから役者だめよ!」と言われたことである。
この言葉は兄にとって最大のセリフで、法事など兄弟姉妹で会うときには大抵は聞くものであり、お嫁さんからは「これしかないのだから・・・」と笑われている。
この意味はよく分からないが、映画関係者の自伝等を読むと鶴田浩二を典型に複雑な家庭の人が多く、ごく普通の家庭だった兄には到底無理と思われたのではないかと思う。
村上さんは、兄によれば戦前に一度結婚したが、その方は戦死され、戦後は近所の子供にピアノを教えたり、大船楽団で働いていたりし、兄夫婦の家に同居されていたとのことだ。
この村上さんのことが、名作『東京物語』で原節子が演じた、次男の嫁紀子になったことは自明のことだと思う。
ここでも、「無から有は生まれず」、名作には作者の体験に必ずヒントがあるということだと私は思うのだ。