『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』 伊藤 淳

伊藤律と言って、もうどれだけの人がその名を知っているだろうか。

1980年秋、突然中国の北京から帰国した、戦前からの元日本共産党の幹部。そして、戦後の徳田球一日本共産党書記長の下で活躍したが、徳田と共に、中国に行き、その後共産党の武装蜂起路線から平和路線への転換の中で、徳田書記長と共に、武装路線の親玉として批判され除名された人物。

また、戦前のゾルゲ事件では、事件とゾルゲスパイ団発覚の元を作った女性北林トモの名を特高に知らせたスパイ、「生きているユダ」と批判された人間。その伊藤律が中国から突然戻ってきたのは1980年で、都立国立高校が東京都代表として出た年だった。それからもう約40年だから、あの帰国騒動をテレビで見た子供も、もう50以上になっているはずだ。

どんな経緯か忘れたが、同居していた兄の小学生の娘、つまり私の姪が、

ある時「伊藤律さんのようになったら大変ね」と言ったことを憶えている。当時平安の世の子供にとって、数十年ぶりに実の父が生きて妻や子供の元に戻ってくるという事件など、到底想像外だったと思う。

伊藤律の帰国の報は、伊藤家に突如知らされ、母伊藤キミと次男淳は中国大使館に行き確かめた後、日本共産党本部に行き昼過ぎに報告する。キミも淳も共産党員だったので、重大事件として党に報告したのだ。するとまさに「重大事件」で、野坂参三がその夜遅くに伊藤淳のアパートに自らやってきたという。後に、野坂は戦前からの「三重スパイ」とのことで党を除名されるが、彼は伊藤の帰国によってそれがばれるのではないかと心配して来たのである。

父を迎えに行き、帰国してからのマスコミとの騒動は大変で、われわれには知らされなかったこともあるようだ。そして伊藤律は、戦前からのことの核心はほとんど語らないままに9年後に死んでしまう。

なかには大変に興味深い話があり、帰国後密かに伊藤がした話の中に、ゾルゲ事件の日本側の首謀者の尾崎秀実は、ある意味で品行が悪く、芸者を上げて酒を飲むのが好きだったということがあるのは大変に興味深い。

尾崎の弟で、戦後『生きているユダ』を書いた作家の尾崎秀樹、あるいは『オットーとよばれる日本人』の木下順二が、その作品で描いたような正義のヒーローではなく、尾崎秀実は相当に行動に問題のある人物だった。

そうした尾崎を相手としたからこそ、ゾルゲはソ連赤軍のスパイでありながら、ナチス党員のふりをしてドイツ大使オットーの信認をえることができ、さらに尾崎も近衛文麿内閣のブレーンとして活躍できたのだといえる。

なぜなら、一般的にスパイというのは二重スパイであり、味方と敵の双方に重要な情報を与えるからこそ存在価値があるものだからである。スパイは、いわば情報の交換器のようなものである。

そうした矛盾の中にしかスパイは生きられないのである。

今日では、伊藤律が特高のスパイで、ゾルゲ事件発覚の元だったという尾崎秀樹や松本清張の説は完全に否定されている。文芸春秋社は、松本清張の本に注釈のメモを入れることになるのだ。

歴史がいかに多くの人に残酷なドラマを強いるものかがよくわかる本である。

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