大学の劇団で3年上の堀内聡さんが亡くなったとの知らせがきたのは、火曜日の夕方だった。
日曜日に葬儀会場の代々幡斎場に行き、式に出た後、4人の先輩と幡ヶ谷で飲んだ。
日曜日の昼過ぎなので、やっているところがなかったが、学生に隣の笹塚に住んでいたことのある林裕通さんが、「駅ビルの地下に店があるはず」とのことで京王線幡ヶ谷駅の地下道から地下街に入る。
この地下街は、昔ながらのもので、中華料理屋、飲み屋等と並んで蕎麦屋があり、中途半端な時間だったが「飲んで良いよ」とのことで5人で飲む。
堀内聡さんの遺影は、非常に痩せて仙人のような風貌だったので、喪主の堀内恵子さんに聞くと「ガンで4年間闘病していたので・・・」とのことだった。
ものとも、堀内さんは、かなり体の大きい人で、中高時代はバレーボール部にいたとのことで、かなりエネルギッシュな感じを与える人だった。意外なことに、堀内さんは阪神ファンで、毎朝デーリースポーツを買って読んでいたとのこと。お棺にはデイリーをたくさん入れたとのことだが、私も死んだときにはデイリーをお棺に入れてもらうことにするかなと思った。
1966年の秋、早稲田の映画研究会が、映画を見てるだけでつまらなく、これなら自分一人でもできると、「若者は肉体を酷使すべきだ」と入ったのが、劇団演劇研究会だった。なぜ、一番有名だった自由舞台に入らなかったかと言えば、高校の先輩の鈴木輝一がいたので、「また、彼にえばられのは嫌だ」と劇研に入った。
部室で入団届を出すと受け取ってくれたのが、偶然にも堀内さんで、
「いい時に来た、ちょうど12月公演が決まり、俳優と裏方を決めるところだから」と言われた。そして、入団して間もない私も、志望の役とスタッフ部門を出したのである。
勿論、結果は、大道具の助手と、黒人青年4になった。
演目は、黒人作家ジェームス・ボールドウィンの『白人へのブルース』で、人種差別反対をテーマにしたものだった。彼は、当時ルロイ・ジョーンズなどと同様に黒人作家、批評家ということで日本でも人気だったのだ。
この劇の準備過程の12月初旬に、劇団等が入っていた部室が焼ける事件があった。そこは20くらいの部が入っていたが、中には探検部、中南米研究会等もあったが、通称「演劇長屋」と言われたように劇団が大きな顔をしていて使っていた。火を出したのは、劇研の部員で、山梨の韮崎高校出身の二人で、ある夜に、マージャンで遅くなり、電車もなくなったので部室に泊った。12月で寒かったので、石炭ストーブに火を点け、そのまま眠り込んで、気がつくと一人の男のコートにストーブの火が点いていて、驚いて消したが手遅れで、天井には過去のポスターが貼ってあったので、そこに燃え移り屋根も一瞬で燃え落ちたそうだ。
私も日曜日の朝、制作の女性からの電話で呼び出され、現場に行くと長屋のほとんど焼け落ちていた。この時、昨日も来た斎藤真さんは、「右翼の仕業か!」と言ったそうだ。
その理由は、当時早稲田では前年の学費闘争に続き、第二学生会館問題があり、クラブの部室は問題の火種になりかねないものだったからだ。火事で火種が消えたというのは、皮肉だったが。
この第二学生会館は、大隈講堂の前に、堤義明が全額寄付して建てたものだったが、管理運営を巡って学生と大学の話が付かず、その内に全学スト時代に、全共闘が立てこもってしまい、機動隊との攻防戦で廃墟になった。今ではきちんとした早稲田125記念室になっている。
さて、堀内さんは、劇研内では当時人気絶頂で、彼を慕う役者は多く、いつか自分で劇団を作るのではないかと期待していたようだ。当時、自由舞台の鈴木忠志が早稲田小劇場を作って活躍していたので、劇研の堀内さんも、と思った人は多かった。声優として有名になったが、2002年に亡くなった井上遥こと漆川由美、4年前に自死してしまった山本亮もそうである。
私は、堀内さんの演出は、『白人へのブルース』だけでしかもほんのちょい役だったので、さほど心酔うことはなかった。だが、1年上の彼らは、宮本研の『ザ・パイロット』、テネシー・ウイリアムズの『地獄のオルフェウス』と結構いい劇を一緒に作り上げたという記憶があったので、後々まで期待していたのだと思う。それを、いつまでも期待させてのは罪だとはっきりしろと堀内に言って引導を渡したのは林さんなのだ。
その後、堀内さんは芝居には一切関わらず、家業の洋服の裏地の店「つるや」を四谷でやっていたが、妻の恵子さんについては、ある時会った時、
「キルトをよくやっていて助かるよ」と言っていた。
堀内さんから私が、『白人へのブルース』の合評会で言われたことはただ一言。
「黒人青年の中に、一人だけ黒人少年がいたね・・・」だった。
その頃は、信じられないだろうが、私もかわいかったのだ。